【仕事】伝染する「まぁいいか」症候群【慣れ】
集団に蔓延するまぁいいかの病理
上司はメールなんて返さないもんだと思っている人がいる。
部下がそれを意識して備えることはよくあるが、上司側でそれでいいと思っている人がいるから困ったもんだ。
中にはメールをすべて読んでいると思うな!
と堂々と宣言する上司もいる。
(※自分はメールを返さないクセに、メールが帰ってこないと怒るのには辟易するが。。。)
役員・経営陣クラスになるとそういうこともあるかもしれない。
彼らには膨大な情報が集まり、様々な判断が社内・社外問わず発生する。
そのため、位が上がったり範囲が広がれば広がるほど、どうしても情報の取捨選択や漏れが発生しやすくなる。
矛盾ではあるが、意思決定側がベースとなる情報を見尽くせない場合があるというわけだ。
だが、仕方がない。
意味のある情報の取捨選択を行い自身の限られた能力を行使するにはある程度は致し方がない。
人間一人の能力には限界がある。
が、そういった側面は見落とされ、「まぁいいか」は伝染する。
経営層や管理職層が致し方なく情報を把握できないことは棚に上げられ、発生した「見落とした」という結果が先走り、誰もがそんな雰囲気でいいかのような認識を持ってしまうことがある。
会社に入社した時は驚いたものだ。
電話を返さない先輩
メールの未読件数の多さを忙しさの尺度として自慢する部下無し管理職
挨拶すらまともにしない社員
もちろんそれらが完璧にできている人もいるし、そういった人には自然と尊敬が集まる。
が、全員がそうではなかった。
中にはびっくりするような連中も混ざっている。
自分だけまぁいいやな人たちの存在が物事をややこしくする
そんな連中に限って新人であるそこのお前に向かって電話を取れとかメールはしっかりしろ!
なんていっちょ前に社会人の基礎を飲み会で語りだすからやってられない。
しかも、世界に展開するグローバル企業がこの有様である。
とはいっても彼らには彼らなりの理由もある場合もあるし、結果的にその方が得をするということもあるのだ。
が、そういうだけではない。
若い世代が抱く違和感はこの「まぁいいか」の空気にある。
若い世代が未熟な人が多いということは認めるが、それでもお手本にならない人に講釈を垂れられる事ほど混乱することはない。
同時にお手本にならない人が同じ空間にいるのに若い世代のみ厳しく教えられる場合に不公平感を感じずにはいられないのだ。
ある程度社会人としてのキャリアを積めば、彼らが諦められているからこそ放置されていることや、腫物として無視されていることを理解するのだが、新人の時にはまだまだよくわからない。
まじめであればあるほどその乖離に驚く。
そうでなくとも、テキトーな部分をうまくごまかしながら切り抜ける人もいる。
そんな会社での何となくの空気感や慣れに徐々に馴染んでいく。
この点、自分自身の行動とあるべき理想がきちんと固まっている人間を除いては環境がもたらす文化に大きく左右される。
若手なんて自分なりの一本筋が通った人なんてほぼいないし、まだまだ社会人としては骨格の形成段階である。
その段階では基本的には周りの人を見て育つ。
守・破・離の守の段階なのだ。
そして、言葉よりも雄弁に行動が物事を語るし、よく見ている。
つまり、お手本のクオリティが低ければ出来上がるものも低いままである。
あ、先輩電話とらねーし、自分も取らなくていいか。
とか
先輩メール返さねーし、自分も返さなくていーか。
とか
とりあえず怒られなければそれでいいや。
「まぁいいか」ってなる。
これがまぁいいか症候群の始まりだ。
妥協の塊なわけだ。
あの人も見逃してたし、オレも見逃してもいいよな!とか、まぁ差し当たって大問題ではないからギリギリセーフだよな。
なんて。
厄介なことに「まぁいいか」上司や先輩が知らない間に進行し、拡大する。
一度それが始まると、ティッシュの端を水につけるとすぐに全体に広がるように爆速で拡大する。
人によっては力の抜き方を覚えるとかさぼり方を覚えると表現したりするが、これによって逃している潜在的機会を把握した上での行動でない限り、適切な使い方ではない。
もちろん、効率化のために手数を削減したり、不要な仕事をそぎ落とすことは問題ないのだが、単なる怠慢や他者軽視が入ってしまうと大きな問題を孕む。
しかも特定の個人に起因すると結論付けるには広範囲すぎており、手を付けづらい。
要は人を変えようとするよりも環境的な影響を変えなければならない。
メール一つとったって、部下から上司へのメールは営業ダイレクトメールでもあるまいし、何らかの意図をもって送られている。
それに反応がないとさすがに凹む。
社会人として慣れていくと何も感じなくなるものが、その時点で既に伝染するまぁいいか症候群はがっつり進行している。
だが、事後対処的にそれを指摘しても現実的メリットを取れる可能性は低い。。
結局、指摘された側は意固地になるだけだ。
忙しかっただの、意味がなかっただの、よくわからなかっただの、テキトーに理由をつけようと思ったらいくらでも理由が付く。
時には意味のないメールだって混ざっているじゃないか!とか電話は相手の時間を奪う行為だ!
とか正論に似た独りよがりの恣意的な主張を展開することができる。
もちろんそういった議論にも筋が通っている場面もあるのだが、便利な言い訳として使われてしまう場面も同じように多く経験してきた。
さらに、メールで送りました!とか電話で言いました!
の言った言わない議論や責任の押し付けあいが始まると割を食うのは決まって位が低い方だ。
もちろんそれに屈せず、逆に上司を虐げるモンスター社員も一定数存在するわけだが、上司部下に関わらず他方を虐げる構図ができている時点で破綻している。
多くの場合はその破綻に至る前に、現実的な落としどころとして、お互いなぁなぁにするというフェーズを通過する。
これがまぁいいかの正体であり、一度の指摘では簡単には修正されないものだ。
同時に自分に原因があるかもしれないのだ。
耳が痛い話を聞きたい人に伝えたい話
耳が痛い話にまつわるあれこれ
耳が痛い話は聞かなきゃいけないとわかっていても聞くのは嫌だし、時には怖い。
ですが、成長の過程では絶対に必要な物であり、愛のある人のそういう話は後々大きな支えになったりするものだ。
が、今日では、耳の痛い話を聞ける機会も少なくなってきた。
というかみんながあえて耳の痛い話をしなくなったというべきか。
苦言を呈する役割
賛否両論あるが、嫌われ役になることで周りに影響を及ぼすというスタイルも昔は珍しくなかった。
やたらと小うるさい先生もたくさんいたし、近所の大人や少年野球の大人からはゴリゴリと怒られたものである。
それはそれで振り返ってみた時には大きな力をくれていることもある。
逆に、こんな大人には絶対ならない!ってのもいたが、とにかく好こうが嫌おうが彼らなりの正義として行動する人は多かった。
が、嫌われ役を誇る人種は現在では敬遠対象になっている。
コンプライアンス対策・人材の流動性向上による転職の容易化・管理職の評価基準うんぬん。
1対1のコミュニケーションの中に気にしなければならない外部要因が増えた。
どうやら、耳の痛い話をする側もめちゃくちゃ気を遣わなければならない時代になったようだ。
管理職受難の時代とはよく言ったものだ。
さらに、全体的にほめて伸ばすことが正義という風潮になった。
要はネガティブなフィードバックでは人は伸びない、怒鳴るなんてもってのほか。
という話だ。
だから、前みたいに否定的なフィードバックがしにくくなったり、拡大解釈して批判は無条件にNGであると認識する人が増えた。
もちろん不用意に人を傷つけるようないい方には大いに問題がある。
耳が痛いだけにとどまらず、心まで痛めてはいいことはない。
怒鳴ったり泣いたなどの感情的なコミュニケーションの善悪はここでは論じないが、耳が痛い話の是非については思うところがあるので書いてみたい。
耳が痛い話の存在意義
さて、この否定的フィードバックをしないことが正義という風潮の令和時代には面白いことに逆の状況が出てきている。
若い世代の向上心がある層が誰も厳しいフィードバックをしてくれないから逆にストレスを抱えているという話だ。
褒めてはくれるし、優しくしてもらっているけど本当に自分として自信を持っていいのかわからない時があるという構図だそうだ。
特に、若手として優しく育てられている中で、戦力として不十分な自覚はあるのに誰もその部分を強く指摘してくれないというところに違和感を抱くというのだ。
優しくされるのは期待されてないからなんじゃないか?とかお世辞を言って濁そうとしているんじゃないか?
など逆にソワソワするようだ。
悟り世代と揶揄される中で、同時にそういった人も増加しつつあるという話を聞いたことがある。
非常に興味深い。
耳が痛い話から遠い環境
彼らはゆとり教育と褒める教育の流れに乗って、過去に比べて比較的守られた安全な環境を享受してきた。
そういった環境を批判する大人が多い中で、選択の余地なくその環境において育ってきた。
そういった本人ではいかんともしがたい環境に危機感を持ち、自分自身の将来を憂う個人はいくら悟り世代と言えどもいるのだ。
ただし、過去の世代と同じではない。
新人は怒られるのが仕事で、上の世代が怒ってしつけるのが教育だという認識はしていない。
無意味な叱責や説教については彼らは非常に冷酷に判断し、見切りをつける考え方の人は10年前と比べて増えている。
将来的にメリットがない心的ストレスがかかるなら辞めてしまえという考えも同時に持っている。
要は心を痛めつけてほしくはないけど、耳が痛い話はしてほしい
少しバランス感覚が難しく、なぜか叱る側が叱られる側のニーズをくみ取る必要性が出てきているが、まぁそういう時代だ。
だが、非常に合理的であるべき姿だとそこのお前個人的には思う。
耳が痛い話をする方もされる方も相互に気を使い合う姿勢が求められる。
自分のことを棚に上げる人はいつの時代も尊敬されない。
現代ではそれが年上でも例外でなくなったというだけだ。
耳が痛い話を聞くのが難しい理由
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。
非常にシンプルで的を射た表現だと思う。
わからないことや知らないことは聞いてしまった方がいいわけだ。
それは自発的に尋ねていくだけにとどまらない。人から頂く話でも同じである。
耳が痛い話でもそれが正しければ聞いたほうが現実的な利益は取りやすいし、自分では気が付かない刺激を与えてくれることもある。
昔から言われているにも関わらず、全員が実行できるとは限らない。
それにはいくつか理由がある。
エセ耳が痛い話をする人たちの存在
耳が痛い話にかこつけて心まで傷つけてくる人達
ただ人に批判や指摘をしたいだけの人
いい話ぶって意味ないことを連発する人
トゲがあったり、ねちっこかったり、感情を逆なでする言い方をする人
そもそも話が通じない人
これらのバッタモン耳が痛い話は文脈にかかわらず、非常に厄介
これらの人から受ける心へのダメージが重なることで話を聞く側は基本的に余計に身構えてしまう。
耳が痛いけど聞かなきゃいけない話なのか単なる時間の無駄なのかわからない場面は出てくる。
あまりにそれが繰り返されるとあきらめるようになる。
聞いても意味ないかもな。
とか
適当に合わせとけばいいや。
なんて。
要は、耳が痛い話の中に役に立たない点が多く混じっていたり、抱いた違和感に対して公平にその是非を議論できない場合のことだ。
先輩から頭ごなしに「ダメだ!」とか「こーするのが普通だろ!」と言われるとまぁ聞く気も失せていく訳である。
昔は怒られに怒られを重ねてパンチドランカーのようになって心理的にマヒするまで心を殴り続けるというのが一般的な対処法だったように思える。
とりあえずキレて、厳しくして先制パンチをくらわす。
こういったスタイルを取る人は令和元年時点で50代以降の人に多い気がする。(そこのお前の個人的感覚)
心が痛くなければ耳もいたくない。みたいな論理で、指摘・批判をされ続けることで慣れさせるというやり方だ。
こういった困った人間に囲まれると聞く側は混乱する。
聞けばいいのか聞かなくていいのかわからないまま時間が過ぎていく。
これには長所と短所があるのだが、この方法は令和時代にはもう過去の遺物である。
だからこそ、耳が痛い話とはきちんと区分けしなければならない。
耳が痛い話とバッタモンは違うものと思っておいた方がいい。
その違いが判らずに、ネガティブなことを言う相手が全て上記の困った人カテゴリーに属すると先入観を持って社会に出ると苦労する。
というのも、耳が痛い話をする側だって完璧はありえない。
大なり小なり上記の困った要素を含んでいる場合もあるし、人によっては癖もある。
大筋、きちんと配慮してくれているけれど、たまにキツい言葉を言われるとかたまに意味不明な話が出るとか。
そういうことはだれしもあることだ。
しかし、そこに心が狭くなってしまうといざ自分が耳が痛い話をする側に立った時に自分を強く縛ってしまう。
それに、早い段階でシャットアウトすると貴重な機会を逃すこともある。
往々にして信頼関係はある程度の時間を経て成り立つものだ。
最初に胃がキリキリとしても、愛のあるフォローや苦楽を共にする時間も含めて人間関係の一部であると認識出来る時もある。
心を痛めてくる人のせいで、意味のある耳が痛い話までシャットアウトすることは非常に損である。
が、耳の痛い話か心が痛む話かの判断基準はしっかり持っておきたい。
1、将来に資する学びや利点を享受できなくなった
2、こちらの話や言い分を受け入れない状態になった
3、心が拒否反応を示した
痛いのは耳まで十分であり、自分本体や自分の未来を削るようなものは不要である。
この3点が一つでも当てはまる場合には再考してもいいと思うが、それまでは一度受け入れてみるとよい。
耳が痛い話をしにくくなった理由
さて、そんな耳が痛い話だが、話をする側もかなり気を遣う時代である。
むしろ、耳が痛い話を依頼する時代が来ている。
この話は特に会社という組織上での話だが、管理職界隈ではセクハラ・パワハラ認定や外部からのクレームを恐れたりする過程で言いにくいことが増えたということもよく聞く。
オーナーのワンマン企業だったり、地方の閉鎖性の高い企業では全く違う文化かもしれないが、都心の大企業などではこれが顕著に変化している。
特にハラスメント認定の基準や塩梅を巡っては非常に繊細で不明瞭な現実が潜んでいる。
それもそのはず。
大いに主観的な部分や簡単には可視化できない要素も含めて判断しなければならないからだ。
画一的なルールを定めるには限度のあるエリアだ。
理不尽な振舞いを抑制する効果は確かにあるが、それを意図しない一定の合理性がある部分にもその抑制力が及んでいる。
そうでなくても、直接関係ないものには関わらぬが吉であり、トラブル解決に当たっては当事者間だけではなく第三者を交えた場を設けやすくなったし、それが主流になりつつある時代になった。
対応の煩雑さや個人的に得られるメリットを考慮しても余計なリスクは負いたくないというのが実際によく聞く話である。
実際、そこのお前も感じるところでは、少し変なことをする人は総じて何かを言った時にも素直には従わない。
そういう人に限って、いくら本人のためを思って配慮していても、想定外の牙をむいてくる。
持つ基準や考え方が違えば違うほどもめ事は大事になる。
そんな経験もあって、苦言を呈するのは苦手で、極力避けてしまう。
耳が痛い話をしていい物か、触らぬが吉か。
これを先に考えてしまう瞬間がないわけでもない。
逆に、耳が痛い話NG!とか歓迎です!
とか書いてくれれば助かるわーなんて思う。
昔の時代のような、上司は上司のありのままで部下が耐えるべきみたいな風潮がないのはいいことだが、かならずしもいいことばかりかというとそうではない。
関係性における常識が崩壊した分、個人個人に対してしっかりと向き合い、構築する必要性が出てきた。
つまり、初動の段階で慎重に動かなければならないのである。
すると本質的な耳の痛い話をする前にもっと表面的な接触から手探りで進める形になる。
上司側としては無用なリスクは避けたいし、年が離れていればいるほどより気を使っているのだ。
中には最初からぶっちぎってがっつり自分のペースに抵抗なく巻き込める人もいるが、それは簡単にできるものではない。
それができる人は稀有な存在である。
だからこそ、今日では耳が痛い話をしてくれる人は希少性を増している宝なのだ。
管理職ひよっこのそこのお前としてはまだまだその領域には到底到達しない。
きちんとした信頼を築こうとする試行錯誤は上司側なりの努力であって、それに完璧性を求めるのは虫が良すぎる。
不満をぶちまけたり、陰で愚痴を言うのは簡単だが、それではお互い気持ちよくならない。
これでは雨漏りしている屋根の水をバケツで出すだけだ。
対策を打つなら漏れている箇所を修理しなければならない。
昔のような上に無条件に従うという文化を排除するのであれば、自分達からも積極的に歩み寄るようにしなければフェアではないし、事実そういうアプローチをとったほうが現実的なメリットは得やすい。
部下でも上司でもお互い不用意に踏み込まないことが良しとされる世の中にあって真摯に向き合ってくれる上司や部下程大切な資源はないと思う。
自分としても耳が痛い話でも聞いてもらえるような上司でありたいと思うし、部下からの耳が痛い話も含めて互恵的な人間関係を持ちたいと思う。
そこのお前も期待する人にはつい期待と同時に厳しい目線で見たくなる時はもちろんある。
そんな時に上司に心開くことができる部下がいてくれると幸せである。
管理職としてもわがままだと批判が来るかもしれないが、部下が上司に理想像を求めるなら上司が部下に求めたっていいじゃないか。って話。
少しそれたが、耳が痛い話を聞きたい人はきちんと人を選んだ上で素直にストレートに伝えることが第一ステップ。
それが上司の警戒心を解かせ、信頼関係を築く一歩になる。
耳が痛い話が聞ければ成長は加速する。
成長が加速すれば充実した未来を享受する可能性が上がる。
日本人は伝わらないっていう経験をすることがめちゃくちゃ少ないって話
最近、いろいろ思ったことがあります。
欧州での生活を経験して感じたことをメインに書きます。
コミュニケーションのどの部分に力点を置くかについて、日本に戻っても考えなければならない話題ですので、今のうちに書いておきます。
伝わらないっていう経験が少ない日本人
伝わらない。
よくあります。
上司に意見が伝わらない。
上手く言えなくて黙ってしまう。
伝わっていると思ったら違った形で受け取られている。
考えていることと口で言っていることがずれていることは自分でもわかっているけど、うまく伝えられない。
いろいろな場面で人は伝わらないを経験します。
一生付き合う「伝わらない」問題
子供のころは泣いたり、感情をあらわにすることで親をはじめとする大人たちに察してもらいながら伝え方を磨いていきます。
ただ、それだけでは同世代の子たちとうまくやるには不十分なので徐々に言葉による伝達を学びます。
(※大人でもそれができない人はたまにいますが。。。)
この過程では、言葉を通して複雑な内容や細かい部分まで精度高く伝える技術を習得します。
言葉を活用するのは世界共通でも、異なる言語の場合には途端に情報伝達の精度がガクンと落ちます。
また、同じ言語であったとしても文化的な背景や育った環境の違いから全く伝わらないという場面も存在します。
ネイティブのしゃべる英語と英語圏外の人が喋る英語では全く別物になってしまうこともありますし、アメリカとイギリスでも違いはあります。
「伝わらない」は言葉だけでなく、文化的背景や環境的な影響も混在します。
この部分について、欧州での海外生活を経て、とりわけ日本においては「伝わらないという経験」が非常に少ない環境だと強く感じました。
割と多くの人が「それぐらいわかるだろ」の範囲をかなり広めに持っている気がします。
特にお年上の方々はそうです。
それもそのはず。
日本人で日本に生まれて育つ場合、環境的にそこまで大きな差が付きにくいようにできています。
日本は教育水準も高度に画一化されていますし、社会インフラや文化的背景もかなり同一性の高い国だと言われています。
方言もせいぜい沖縄や東北・北海道の奥の方では違いが目立つ程度ですが、完全な別世界ということはありません。
その他にも、外国人や異なる文化背景の人が流入してくる入り口が非常に少ない環境といえます。
教育課程での外国人はまだまだ少ないですし、移民が活発になってきましたが、それでも日本語一強体制です。
徐々に開かれ、オープンになりつつある世界ではありますが、それでもまだまだ単一文化の範囲内を脱しているとは言えません。
更に、もともと不言実行を良しとしていた世界です。
語らずとも語ることを美徳とする文化的背景もあり、必然的に明確なアピールはせず、お互いに察しあうという点に力点が置かれてきたといえます。
阿吽の呼吸や以心伝心など様々な言葉抜きで通じ合っていることを表す表現があるように、同調性や協調性を重んじる国民性や社会的傾向が歴史的に主流でした。
それ故、伝わるはずだ、察するものだという「推し量る」ことの要求レベルは比較的高い水準にあると言えます。
実際、そこのお前もよく大人からは「普通こうだろ!」という常識論やあるべき論をあまり十分に説明されずに語られたものです。
そういう意味では「伝わらない」という苦しみに関する認識は子供よりも大人の方が劣っているかもしれません。
伝わるのが当然だとみんなが思う
いいからやってみろ!とかつべこべいうな!といった抑えつけは子供のころから嫌というほど経験してきました。
何で説明がないんだろう。。。なんて思うことも多かったです。
それは多くの若い世代が疑問に思うところですが、それを圧倒的な力ですり潰すのが日本式でした。
「上の世代は無条件に尊重すべき」が是とされてきた日本社会
この縦社会という年齢に基づくヒエラルキーの序列関係が強力に集団を統治できる仕組みとして機能していました。
そのため、極端な世界では上が言ったことがわからないのは何があっても下の責任という文化でした。
年上世代に配慮することや、自分自身の考えや思考を抑制して組織における感情的調和を図る事が良しとされてきました。
状況と立場に応じて察するべき立場、察してもらえる立場を悟り合うのが日本的コミュニケーションな訳です。
実際、それでうまく物事が回るケースもありますので、絶対的に悪い物とは言い切れません。
が、世界に出た時に短所になりうると痛感しました。
誰が察して、誰が察してくれるかの序列は文化ごとに違うのです。
むしろよりインターナショナルな場ではそんな序列は存在しません。
つまり、全く違うスキルが必要になるのです。
欧州では様々な人が渡ってきて、入り混じって生活をしています。
移民の是非についてはここでは論じませんが、直近の移民の問題が起こる遥か昔から欧州では世界中から人が集まってきていたわけです。
宗教も多様化しますし、言語も多様化されている世界なわけです。
それは欧州内の別の国ということもあればインドやトルコなどの西アジア組、アフリカなど様々なエリアから様々な人種が溶け込んでいます。
何世にもわたって定住しているという人も一定数いるのです。
そんな中にあっては伝わらないことだらけ
もちろん欧州の人たちが完璧に多様性を受容できているかというとそういうことはありません。
彼らも彼らでお互いに相いれない部分を抱えていますし、どっちが上でどっちが下みたいな議論はもちろんあります。
が、子供のころから伝わらにくい、わかり合いにくい人たちと過ごす経験は非常に豊かに積むことができる環境なわけです。
伝わるもんだ。ではなく、普通伝わらないもんだ。に認識が変わります。
伝わらないことが当然という中ではいかにして伝えるかの技術や意識が発達します。
簡単には伝わらない中でどうするか?ということに意識が置かれるようになります。
伝わらない時は伝わるまでとことん主張する。
とか、
相手が何を知らないかわからないからできるだけたくさん説明する。
とか。
伝わらなかった時にどう対処すればいいかを自然と体得します。
伝わらないことでパニックになったりしませんし、相手を殊更に責めたり、省いたりもしません。
こんなこともわからないの?と言い出したら終わりです。
これをヨーロッパでいうと、どんなこと?って平気で聞き返されます。
どうも、わからないやつが悪いというのと同時にわからせないやつが悪いということも結構あるようなので、キチンとはっきり説明主張するわけです。
逆にあいまいにして察するのを待っていると、「いや、言葉にしないとわからないよ!」といって平然と突っぱねられます。
こういう環境で育ってきた人と比べると、最終手段の伝わるまで伝えるというごり押しも含めて、相手に積極的に伝えるエンジンの出力が違います。
これは日本人として育つ過程ではあまり体得しにくい能力だと感じました。
もちろん、不可能なわけではありません。
が、少し意識をして手に入れに行く必要があると言えます。
日本では身に着けにくい伝わらない時の対処法
子供のころから、大人たちが伝わるもんだという認識でコミュニケーションをとってくるので、その人たちのまねをしていては自分も同じ人間に仕上がってしまいます。
年が下であればあるほど相手を察することを求められるわけですが、逆に言えば年を重ねれば重ねるほど相手に察することを要求しまくるようになります。
あまりに長い時間「察して当然、伝わって当然」という中にいると環境の変化に耐えうるサバイバル能力を失います。
また、そういう「伝わる人」としかコミュニケーションをとらないと恐ろしく交友関係の幅が狭まり、非常に閉鎖的な人間になってしまいます。
察することを相手に要求しまくっている裏では自分自身の能力を切り捨てているということです。
無自覚に察することを要求することが結構恐ろしい。
この経験の少なさはこのグローバル社会の発展・浸透の過程でますます致命性を増していると思います。
相手がわかるように、相手の解釈の範囲を狭めて特定するように伝えるという点に日本人は重きを置いてきていないわけです。
むしろ、日本では言わなくてもわかるよね!っていう点に力点を置いている人は結構多いです。
もちろん日本人だけがそうだと断ずるわけではありませんが、割合は多いと思います。
そこのお前の個人的な意見では伝わらない経験の少なさがこの現象を作っていると思っています。
大体わかるだろうという線が非常に広く設定できるのは文化的・言語的同一性の高い状態で基本伝わるという安心できる状態を持っている状態のみです。
特に年齢や位が上がれば上がるほどにこの範囲を広く設定しがち
おそらく、日本でキャリアを積む上ではこれが無自覚に広がり続けることに危機感を持たなければならないと考えています。
若い世代は逆にいろいろと配慮したり考えるものなので、より柔軟でいることができますが、年上世代になって日本社会に特化して柔軟性を失うことは気をつけねばなりません。
逆に、面白いのが、日本人は察する能力が高いので、欧州では逆に珍しがられます。
言ったら確実にわかってくれるし、言った以上のことをやってくれるのはすごくよい。
という評価をもらえます。
リアクションも薄いし、多くはしゃべらないけど伝わっているんだよね。。。と感心されます。
普段、これでもかってぐらいはっきり言わないと伝わらない彼らからすれば、リアクションが薄い日本人はつかみどころがなく見えるけれど、助かるそうです。
これ、実は誉め言葉であり、ちょっとしたダメ出しでもあります。
欧州では控えめさよりももっとずっとアクティブさが求められるんです。
わからせるための努力も、わかったアピールも両方必要なのです。
これは根っこには伝わるだろうという淡い期待や常識の範囲で伝わるだろうという認識をかなり狭い範囲に縮小しているという点にあります。
実際、こちらからコミュニケーションをとるときは言わないと伝わらないですし、言ってもわかっていない時もあります。
分かったかどうかを確認させ、繰り返させたり、適宜確認を入れたりするという手間が必要になります。
結構大きな違いです。
頭ではわかっているんですが、なかなか普段確実に必要なレベルで出来ているかというとそういうわけではありません。
「伝わらない」に対する弱さ日本人が抱えるある種先天的な弱点かも
この弱点をカバーするには「伝わらなかった時にどうするか。」を常に意識し、磨き続けなければなりません。
伝わるもんだと勝手に思い込んで、うまくいかない時にイライラするのはまだまだ次元が低いわけです。
そこのお前もそういうことは多々ありますが、成熟するとともにそういった勝手な思い込みやバイアスをそぎ落としていかねばなりません。
日本人同士でもどんどん多様化していますし、他の世代としゃべるときはそういった配慮が必要になったりするわけです。
同時に、どうか恐れずに主張していく度胸とパワーを身につけたいと願う日々です。
ビビりのそこのお前にとってはそっちの方が大きな課題です。
伝わってほしいという淡い期待をやめて、伝えるんだという積極的な意思を持てるように変わっていくのが肝要です。
伝わらないは悪いことではないって思えるようになること
伝え続ける粘り強さを持つこと
伝わっていないことに過剰な罪悪感を持たないこと
こういう細かい意識変化の積み重ねが必要だと思います。
部下を迷わせない上司が最強だって話
よい結果を出せる人は迷わないし、迷わせないって話
明確なゴールとその条件の理解
経験の有無・対応方法の練度
回避策・逃げ道の設定
明確な優先順位
これらがきちんと定まらない場合、常に様々な迷いを生み出すことになる。
最近、面白い本を読んだ。
めちゃくちゃ昔の本であり、知っている人は知っている割と有名な本だが、
「失敗の本質」
というタイトルの本だ。
内容としては太平洋戦争で旧日本軍がアメリカに負けた理由を組織論の観点から分析した内容で、今日でも当てはまる組織として敗ける理由を丁寧に分析した本だ。
戦争の是非やどうしたら勝てたかという話というよりは単に組織的な構造や行動に着目した本。
当時の状況の考慮具合にある程度の限界はありつつも、かなり細かく一つ一つの行動と背景思想を洗っていた。
それを読みながらある迷いまくった体験を思い出した。
そこのお前のチームには一人の新任上司がいた。
彼は優柔不断だった。
とにかく決められない人だった。
心配性で、気にしいで、優しいとても人のいい上司だった。
だが、上司としては決定的に頼りなかった。
チームメンバーに仕事を依頼するにも気にしすぎるし、上司の上司に配慮しすぎて、Must haveとNice to haveの線引きができない人だった。
本当は自分の雰囲気を読んで行動して欲しいとすら思っているような人だった。
結局、そこのお前を含む部下はそれを読み取るのに苦労した。
部下側は曖昧な結論に逐一迷いを抱えた。
結局どうしてほしいのか?
時間が足りない中で何をそぎ落とせばいいのか?
そういった融通の利かせ方が不明でいちいち上司とすり合わせをしなければならなかった。
上司も部下も時間をたっぷり使うわけだが、結局上司側がパンクした。
当然だ。上司となると部下の人数分だけ時間を使わなければならない。
上司側がパンクするといかに部下が優秀でも、会社のさらに上での考えとの統合や他の部門との連携がままならない。
最終的にチームは機能不全を起こし、迷いは不信を生み出した。
結局、本来であれば迷わなくていい仕事すら疑いの目を向けられたり、自分たちで自信が持てなくなり、部下自体のパフォーマンスも落ちた。
―――――――――
迷いは連鎖する。
何らかの迷いがあると、他の無関係の仕事にも集中が散らされ、行動力が落ちることがある。
たとえ話であるならば、二兎を追う者は一兎をも得ずだ。
ちょっと本来の意味からはずれているが、実はそういう含蓄もあると思う。
本の中では選択と集中の効果を実際の事例に照らして当てはめて説明していた。
つまり、個人の力量を最大限発揮するには明確な選択と集中が必要という結論だったのだが、それと真逆を行く組織的なマルチタスクが生み出されていたことが敗戦の原因だったと指摘している。
もっと身近な迷いに関するたとえ話をするとすれば、以下である。
ボールが一球飛んでくればキャッチできる。
が、2球同時に飛んでくると両方キャッチできないし、それどころか1球もキャッチできないことがある。
ひどい場合にはその場で反応できなくなって無様に当たってしまう。
変化球を待ちながらストレートが来て完璧にホームランをかっ飛ばせることは少ないし、素人であればあるほど対応できなくなる。
何か一つの球種に絞って打席に立つよりもスイングに迷いが出やすくなるわけだ。
それと同じような迷いを生む場面は学校や仕事の上でもある。
他の仕事で引っかかっていることがあったり、何か悩んでいることがあるとする。
なぜか全く関係ない仕事でも行動力やパフォーマンスが落ちる。
アレの納期いつまでだったな。
とか
この話片付いてないけど、他のこともやらなきゃまずいなぁ。
とか
迷いが完全な集中を奪う瞬間
個人のタスクはマルチタスクではなく、一つ一つ集中して行うべしといわれる。
が、常にそういう状況に入れる人は多くない。
こっちの仕事をしていていいのかな?
とか
このままこっちの仕事に集中して忘れてしまったらいやだな。
なんて。
イヤでも頭にちらつくことがある。
チラつく迷いが脳のリソースを食い、目の前のタスクに100%の出力を出せない。
自分の思考や注意力をコントロールできていない時に起きがちだ。
脳は記憶には優れているようだが、同時処理の瞬間出力強度の方が先に限界を迎えるようだ。
迷いが生み出すマルチタスクの障壁
それでもどうしても同時処理をしなければならない場面は出てくる。
そもそもマルチタスクは脳内の同時処理を達成するものではない。
脳機能の観点からはマルチタスクに見える人は実は高速で脳の切り替えを完全にできる人のことと言われている。
その脳の切り替えにも当然パワーを要するわけだが、切り替えまくっているとだんだんスタミナを消耗する。
マルチタスクが高いレベルで成立しやすい状況を定義するならば、同時に進める物事達に懸念や迷い、意識の偏りがない時だ。
何かの懸念があるものと同時に進めると実はその懸念の方に脳が引っ張られてしまうことがある。
すると、もう一方へのリソースの割合が必要なレベルに満たなかったり、スピードが落ちたりする。
これがそもそも組織起因でこの懸念を生み出す場合、個人の実力や考えではいかんともしがたくなる。
同時に個人の力量で解決しようとすると統制を失うことになる。
マルチタスクの恐ろしい部分
いかに切り替えのうまいマルチタスカーといってもその間完璧に他方の考えを排除できる人はほとんど見たことがない。
逆にそれが完璧にできる人は日常生活に支障を来すはずだ。
なので、ある程度のマルチタスク能力は必要なのである。
迷いが原因で脳が過負荷状態になることがある。
特に、どうしていいかわからないものや対処の目途が見えないものが頭の中に横たわっているとそれだけで脳のパフォーマンスが落ちる。
それは人間関係かもしれないし、目先の苦境かもしれないし、ある時は病気や体調不良の不安かもしれない。
とにかく何かしらの迷いや不安や不透明感は少しは気になったりするものだ。
しかも無意識レベルで悪影響を与えることもあるから質が悪い。
試験勉強があるのに好きなこのことで頭がいっぱい。
とか
本当は英語をやらなきゃいけないのに数学の課題が頭から離れないとか。
会社でもそうだ。
多方面から仕事が大量に舞い込んできてアワアワするケースは誰しも経験があると思う。
それだけではない。
仕事を振られた時に様々な条件が付いたり、曖昧な読み取りにくい条件があったりするとその塩梅を逸脱しないようにすることに時間がかかる。
同時に、気が付かないうちに認識が食い違っていることがある。
もちろん経験すれば慣れて対処法も学んでいくことができるのだが、ただ根性論で乗り越えられるほど甘くない。
最初は2球でもいっぱいいっぱいだった3球以上の数でお手玉ができるようになるように、複数の対象を同時に相手にするということはできるようになる。
が、迷いなくマルチタスクをするには練習や慣れが必要である。
慣れによって不確定要素を感じない状態を確保し、難なく状況をコントロールできるように脳内でシンプル化する必要がある。
こういう時はこう、違う時はこう、というように脳や感覚内で自動的に動くプロセスに簡素化する必要がある。
それができない時に人は迷う。
迷い、行動力が落ちる。
組織的マルチタスクを生み出す仕組み
会社でいえば、管理職以降は往々にして多くの矛盾や対立を同時に抱える。
だからこそ、平社員時は選択と集中によってパフォーマンスを発揮してきた人が自分自身では選べない何かによって機能不全を起こす。
そうすると部下も様々なことを同時に判断しなければならなくなり、苦手な人から機能不全を起こす。
これが組織的に起こりうる。
働き方改革の時代では迷いの環境の維持に特に気を付けなければならない。
昔のように自分で考えさせて、壁にぶち当たらせて自分流の解決策や感覚を身につけさせるトレーニングは多くの場合で非効率的と扱われるようになった。
細かいカスタマイズや対応への柔軟性を個人個人が養う現場第一主義のは終焉を迎えようとしている。
日本人が歴史的に得意としてきた極限まで技能を向上させるために追い込むという方法は使いどころがなくなった。
今は徹底して迷いを排除し、シンプル化しなければならなくなった。
つまり余計なことを考えないようにコントロールすることが是とされるようになった。
いかに簡素化・アルゴリズム化を促進し、機械に代替させ、人手を介さないようにするか。
この考えが主流となっている。
迷いマネジメントのスタイルの転換期
今までは迷い、成長することが是とされていた。
どんな細かいことでも本人に悩ませるためにあえて手出しをしなかったり、答えを教えなかったりする指導スタイルは非常に一般的だった。
なので、管理側はあまり細かい指定をしない大いに考える余地のある指導でよかったのだ。
だが、時代は変わった。
言葉では説明しずらい部分を「背中を見て盗め!」とする乱暴な指導も「自分で考えて乗り越えるのがいいんだよ!」という上から目線も今の時代はフィットしない。
それらのいい部分を切り捨てても時間を短縮していかねばならない。
それどころかそんな曖昧なものでは組織は迷い、動けない。
明確にできない上司から順にバカ上司のレッテルを張られていく。
基本に忠実に非常にシンプルで迷いなく行動できるように明確な整理をする。
これが今の管理職により強く求められるようになった。
無骨な不器用上司や雰囲気で押す剛腕上司の時代は終わった。
いかに戦略を組み立て、それをシンプルで具体的なゴールと誤差範囲・条件を示して標準化した作業に落とし込むことができるかどうかに比重が寄るようになった。
元々の日本的組織が要求する察する能力や感情に配慮して自治に任せる範囲を広げるには非常に長い時間と我慢を要する。
終身雇用慣行や閉鎖性の高い同じ時間を長く過ごす関係性であれば一定の合理性はあったが、もう時代は変わってしまっている。
旧来のスタイルでは間に合わないほど世界の変化のスピードは加速している。
もちろん、高度に標準化された環境に居続けると、想定外や予想外での自己調整の能力を得るチャンスを失うという欠点はある。
が、その難点を飲み込んでも、極力標準化して効率的にとれる範囲だけをとっていくというスタイルをとらざるを得ないようになっている。
なぜなら時間には上限が定められ、労働者集団自体もそういったフロンティア的状況を望む人はどんどん少なくなってきているから。
逆に管理職は自分自身で迷いに対処する力を強力に持たなければならなくなった。
また、これから上司を目指すには迷わない環境に甘んじることなく、迷いのある状況で迷わない力を手に入れなければならなくなった。
働き方改革の裏に隠れて、その点を忘れてはならない。