自己否定学習ができないことが恐ろしい話
忘れられる自己否定の重要性
自己肯定感という言葉が踊るようになって久しいと思います。
自信を持ちなさい
自分が自分であることを貫きなさい。
ゆとり教育や褒めることが正義とする教育のトレンドも一貫してこの点を強化する傾向にあります。
ありのままでいい。
自分が好きなことをやろう。
君が君であることが君の人生だ
他者を尊重し、自分自身も尊重されるべき。
人から否定されることなんて気にしなくてもいい。
なんて。
さまざまな目を引くキャッチコピーや優しい言葉が踊っています。
実際、数多くの成功談もこの側面が強調されるようになりました。
「好きなことで生きていく」
―Youtube広告
「ありのままを~」
―Let it go
「働かずに所得を得る」
―某情報商材
それだけではありません。
昔と比べてスポーツのインタビューや感動エピソードの作り方も大きく変わりました。
なるべく自己否定する部分を削る傾向
好きなことをひたすら続けることが成功の秘訣です。
とか
自分はできるはずだといつでも信じていました。
とか
自分自身の絶対的な聖域を持ちたいように持っていいかのような作風が目立つようになりました。
皆さんだってできる!
とか
これを見て自信を持とう!
そういった作風に変わってきました。
これ自体は非常にいいメッセージだとは思いますが、ただそれを優先するあまり、努力や挫折を乗り越える側面を少し軽くしすぎているシーンが増えた気がします。
臥薪嘗胆、艱難辛苦などのストイックな部分は古臭いと敬遠されるようになりました。
確かに苦労や努力に比例して成功をつかめると保証されているわけではないのでストイックさや泥臭さは一つの戦い方ではありますが、絶対的正義ではありません。
が、なにか積極的にストイックな生き方をすることにネガティブなイメージすら植え付けている瞬間もあるのです。
もちろん、いたずらに人を追い込むような作風を奨励すべきとは言えませんが、求道者の苦労や苦痛については極力触れない作風が目立つようになった気がします。
昔(20年前程度)のNHKのドキュメンタリー等と今の民放のドキュメンタリーを見ているとその差をすごく感じられるので見てみると違いがはっきりしていて面白いです。
NHKのProject Xとかも今は終わってしまいましたが、重た~い展開で本当にリアルな苦労が伝わるものでしたね。
陰に隠された努力にはいつの日も激しい自己否定がある。
今のままではだめだ。
変わらねばダメだ。
現状維持に胡坐をかいた故の窮地
こういう状況は人生の中で1度も経験しないという可能性は低いわけです。
逆に、そういった逆境や厳しい状況を跳ね除けた事は価値のある財産になる訳です。
イチローも引退間際にあれだけ髪が真っ白になるまで悩みぬいて、それでも野球を愛したことが誇りだと引退会見で語る訳です。
羽生善治も常に戦い方を変える進化を追求する勇気が勝利をもたらすというわけです。
それらの裏には途方もない自己否定と再構築があるはずです。
今までの成功モデルはこれからの成功を保証しない。だから常に自分自身を超える自分でいなければならない
とか
自分自身の成功したモデルを手放し、試行錯誤する苦痛を常に味わう。
そういった陰に隠れた大っぴらに誇張するとダサく受け取られる膨大な努力の存在を知らずして、自分はありのままでも自分の歩みたい現実を歩めると漠然と認識することは非常に問題なわけです。
あんまり努力はしない代わりに、どんな結果になっても文句は言わない。
とか
自分のやりたいようにする代わりに、成功しなくてもいい。
そういう考え方はありだと思います。
それはそれで誰か無関係の他人の評価は無関係です
やりたいことをやって、それが満足ならそれで幸福は完結するのです。
食事は食べること自体が幸せであってそれ以上のものはないということです。
が、ありのままでいたいけど、成功も自分が欲しい分だけ欲しい。
となると話は違います。
成功の定義はそれぞれですが、何らかの評価や金銭を得たいという場合はどうしても他者や外部環境による影響を受けます。
商売であれば人の欲しいものを売るのが鉄則ですし、競争ならば他の人より優れていなければなりません。
つまり、生まれながらにして人のニーズをとらえていたり、無双状態でない限りは自分がありのままでいる状況で結果を両立することは難しいわけです。
この違いを正しく理解できないことは非常に問題だと思うんです。
ありのままでいたいのか結果が欲しいのか。
どこかでありのままの自分でいることと希望する成功を得ることが対立する部分が出てくるわけです。
ありのままでそのまま成功を継続するケースは超絶稀であり、多くは一時的なものか、創作物の世界です。
この自分自身と自分が掴みたい結果との乖離に対処する力は自己肯定一辺倒では養えません。
結果が欲しい場合は自己否定のプロセスを体得する必要性が高まる。
子供と大人の違いや精神的成熟度合いを分ける決定的な違いはそこにあると言えます。
自己否定学習ができるかどうか。
子供のころは社会や周囲に否定されることで自分自身と社会との距離を掴みます。
完璧に守られた幼少期を抜けると、親に怒られ、先生に怒られ、友達とケンカし、様々な思い通りにならない現実を味わいながら人格を形成します。
要はリアクション人生というべき他者否定学習です。(もちろん、他人から褒められる事でも学習します。)
しかし、年を経るごとに自己否定と自己肯定の比重は大きく変わる。
大人では自分自身で自分を否定し、世界との関係を継続することが生存戦略として求められるようになります。
一々細かいことを指摘したり、教えてくれる人は年を経るごとに少なくなりますし、より多くのことが経験済みの知識で対応できるようになります。
が、他人からあまり細かく言われない期間が長くなるにつれて、気が付かないうちに陳腐化している可能性を孕んでいます。
その陳腐化が社会的に様々な不都合な現実をもたらしうるため、常に先手先手を打ち、現在位置に無条件に安住しないことを意識する必要があるということです。
人生にめどがつくまで絶えまない変化に対応できなければなりません。
その間、他人や環境から否定されることもある
その否定がとるに足らないものであれば大したダメージではありません。
例えば、そこのお前は単なるサラリーマンですが、草野球が好きです。
草野球は好きでも草野球が下手くそ!って言われてもちっとも困らないわけです。
その程度の否定は取るに足りません。
「ごめんちゃい!でも、野球好きだわー!」で済む話です。
逆に、本業では外資系企業に勤める管理職として「仕事の出来が悪い」と言われては致命的なわけです。
この部分において失敗を重ねることは生存に関わります。
その前に自分自身を変えるなり、至らぬ部分を補強したり、長所を磨いたりするなどの戦略的変化をもたらさなければなりません。
大人は他人に否定されるより先に自分で自分を否定し、対策を打つべき。
満足は進歩の敵という格言にはそういった意味合いが含まれています。
耳が痛い話ではありますが、現実は思っているよりもずっと残酷でえげつない世界です。
その前段階で自己否定プロセスを自律的に機能させられない場合、一生懸命頑張っているつもりでも、冷酷な現実があることを受け入れることができなくなります。
そして、自分と現実の狭間で大きな精神的負担を強いられるのです。
自己否定をしない生物は進化が止まる。
残された道は自分自身のわずかな最適化による調整だけ。
ガラパゴス島の生き物が他の環境では生きられないように。
自浄作用がない歴史ある組織が内紛で内部崩壊するように。
慢心したチャンピオンが新世代の台頭に飲み込まれるように。
もちろんだからと言って常に変わり続けても勝てるかというとそういうわけではありませんが無条件の自己肯定も勝利の永続性は保証してくれません。
それに、自分自身は常に変わり続けます。
嫌でも老いていきますし、できたこともできなくなります。
変化に対応できないことはそういった恐ろしい事実すら自覚できずに緩やかに弱くなっていくのです。
自分自身を否定する技術を身に着けるよう意識してみてはいかがでしょうか。
最初は大変ですが、慣れと共に自分自身をよりコントロールするためのツールとしては非常に有効だと思いますよ。
それに、自己肯定と自己否定をどちらもできることはかえって自信につながりますよ。
自分が自信を持つべき部分、謙虚であるべき部分がおのずと見えてきます。
ではでは