【働き方】頭脳の蓄積疲労という見えない罠の話【キャリア】
単純な疲労と回復プロセスとは別に「蓄積疲労」が存在する。
厳密には違うが、わかりやすく例えると充電式バッテリーだ。
バッテリーの使い方によっては同じ充電回数でも蓄電性能の低下に差が生まれる。
スマホのバッテリーなどは電池寿命を延ばすHow toが浸透しつつある。
蓄積疲労による悪影響は一回当たりの充電による供給可能電力が落ちるということに非常に近い。
これは人間にも当てはまる。
蓄積疲労や蓄積ダメージは存在する。
多くの場合、人はそのことに気が付きにくいし、気が付いた時にはもう遅いということも多い。
スポーツの世界ではアスリートの蓄積疲労については研究が進み、なるべく寿命を延ばすために負担のかけ方を調整する試みがすでに実行されている。
野球で言えば投手の肩や肘はすでに消耗品と考えられており、投球数を制限していくことが正しいという考え方が非常に一般的になった。
これは最大パフォーマンスを出し続けられる期間を最大化することを意図している。
そもそもの出力量制限に加え、様々なケアやトレーニング・医術によってもアスリート寿命を延ばすための方策は生まれ続けている。
これは単年で記録に残るような爆発的好成績を少ない年数で達成するよりも長期でトータルの記録でより多くの積み上げを目指すというものだ。
この考え方の発展は常に個人のキャリアと“今”の成績を求められるチームのジレンマの衝突を繰り返しながら少しづつ変わってきた。
アスリートは活躍できなくなったら、あっさりクビになるし、稼げる金額が下がる。
だが、チームは選手を変えながらでも常に成績をよくすることを考える。
それゆえに昔はチームの成績への合理性から極端に投手を酷使して、擦り切れるまで投げさせるということが普通だった。
チームは惜しみながらも壊れた選手は取り換えればいいという考え方だ。
考え方自体も壊れるやつは弱いやつだ。鍛錬が足りないやつだ!と短絡的に考える方式だったから効果的に故障を防ぐという考え方は存在しなかった。
これではアスリートの平均寿命は延びない。
(※昔はアスリートの限界寿命は今より短いものが常識だったので、より短期間での活躍が必須だった時代が変わったことも要因の一つであるが。。。)
だから、今は特にメジャーなスポーツでは選手生命に配慮したアスリートのあり方が構築されている。
だが、これは頭脳労働者にも当てはまるといえないだろうか。
働き方改革はこの点に関しては非常に重要な意味を持つといえる。
今までの長時間酷使の常態化に対して一定の抑止効果があるのは間違いない。
だが、これも労働環境で損なわれる場面もある。
管理職が自分の利益のためにすべてを犠牲にする場合などだ。
特に成果主義を導入する場合にありえる。
短命アスリートと同じ構図だが、部下をギンギンに酷使し、精魂尽き果てるまで走らせた時は管理職は労せずして昇進を手に入れ、部下は後々のキャリアで消耗してしまう可能性があり得る。
サラリーマンの蓄積疲労については現場レベルではまだそこまで本格的に議論されていないが、非常に恐ろしい。
しかもこれは睡眠不足・長時間労働・休息不足など様々な簡単な理由で蓄積する。
現在の一般的サラリーマンが置かれる労働環境ではキープすることが難しい。
その割にはアスリートよりもはるかに長い時間の人生を棒に振る可能性を秘めている。
頭脳を消耗させた場合、代わりが利かないのだ。
アスリートはスポーツをプレーできなくなっても、まだ頭脳が健在であればほかの仕事に就くことができる。
だが、頭脳や精神を消耗した場合、より多くの可能性が消滅することになる。
場合によっては就労不可になる可能性もあるような重篤なリスクだ。
もしかしたら、機械にたくさんの仕事が代替された世界ではますます職業を探すのが難しくなるかもしれない。
過去からの展開を見ると、既に1980年代で55歳定年は絶滅し、2020年頃では60歳定年が滅びようとしている。
2060年に何が起こるかわからないが、70歳が定年、または定年という概念が滅びている可能性もある。
すると個人のキャリアは18歳からの就労で52年、22歳からの就労でも48年である。
これは個人のキャリアが企業やその所属の寿命を上回る可能性が上がることを示している。
つまり、個人がいかに長期間の間に消耗せずに自分自身のパフォーマンスを維持・向上できるかどうか?ということを考えなければならない時代が来ている。
もちろん、会社で働くだけがキャリアではない。
だから副業に手を出す場合もありうるし、もう一度大学で学びなおすタイミングを作って、キャリアをシフトさせる人もいる。
だが、四六時中会社や業務に尽くし、苦痛やストレスに耐えるということを美徳とする時代ではなくなる。
終わらない飲み会、嫌な説教、嫌な業務、苦痛を伴う職務Etc etc
これらに耐えたところで、会社は蓄積疲労によるパフォーマンス低下の面倒は見てくれないし、淡々と低い評価をつけるだけだ。
うつ病や外傷、その他の急性のダメージは労災や保険というシステムがあるが、蓄積疲労によるパフォーマンス低下の逸失利益は定量化が難しいこともあり、全くケアされない。
キャリアの寿命が長い以上、取りうる利益がない場合やほかの代替手段がある場合に不要な苦痛に耐えることが得な時代ではなくなる。
会社に要求を突き付けてもいいが、それ以前に頭脳または精神の蓄積疲労を最大限軽減させる取り組みは進めた方が個人は得をするだろう。
ただ、両立が難しいのが、生きるか死ぬかの瀬戸際を迎える瞬間である。
野球選手であれば、ここで活躍しなければプロでなくなってしまうとか2軍に落ちるなどの場合は多少無理しても頑張る。
主な理由はセカンドキャリアが極端に制限されるような状況だからだ。
これらの場面では長期的な利益など度外視して、何とかその場を凌ぐという状況が続くことが多い。
この「土壇場で粘れる力」はそれはそれで非常に価値のある技術である。
社会人のキャリアの中でもそういった短期的な努力をある程度長い期間必要とする場面がいくつかあるかもしれない。
逆に長期的に活躍するために派手なピークを完全に避けると、短期的なピークや爆発力という強みを切り捨てることにもなりうる。
判断が非常に難しいが、時にはクレバーに短期的な酷使に耐えうる時期が必要かもしれない。
だが、現在のホワイトカラーにおいて、それしかとりうる選択肢がないというケースは非常に少なくなってきたと言える。
ここで負けると日本がなくなるとか、自分の職業の存在自体が消滅するなど生きる術を失いかねない場合は四の五の言っている場合ではないが、今の成熟した国、日本にあって、そういう状況は非常に限られている。
逆に今は転職やその他へのキャリアチェンジが非常に容易になった時代である。
だから苦しい状況で取りうる利益を度外視してひたすら頑張り続けるメリットは加速的に少なくなっている。
それよりも長期的に生存できる戦略に基づいてキャリアをより柔軟に構築し、短期疲弊を防ぐ戦略を取らないと将来困ることが増えると予想されている。
そういう意味では会社に最適化しすぎて、離れられない状況も同様に問題といえる。
この場合は蓄積疲労に該当するのか単なるキャリアのガラパゴス化によるものなのかは不明だが、明らかに健全なキャリア構築とは言い難い状況である。
だが、これからは脳の疲労を適切にコントロールする技術を身に着け、安定したパフォーマンス向上を構築できる人間の方が最後に勝てる時代が来ている。
先行逃げ切りを目指す時代は終わった。
先行して加速し続けることができればいいが、いつまでも無限に成長できるわけではないし、生物学的ピークを過ぎても長く活躍することを考えることが求められるようになる。
特に頭脳労働者できちんとキャリアを積もうと考えるならば、これを避けては通れない。
より多くの判断やより多くの情報処理を必要とする人はとりわけ感覚を研ぎ澄ます必要がある。