【働き方】働き方改革とゆとり教育【謎論理】
最近の議論で気になることがある。
長時間労働を“絶対悪”とする論理
絶対悪=すなわち、他にどんな理由があろうとも悪であるという認識だ。
労働外部の識者(Or研究者)やコメンテーターは簡単に下記の正論をぶちかましてくる時がある。
労働者を長時間働かせないと経営できない企業は存在すべきではない。
とか
経営者の才覚がないから人は長時間労働する。
なんて言い出す。
要は長時間労働は根絶すべきものと言わんばかりの主張。
まぁそうかもしれない。
経営者が辣腕で素晴らしいビジネスを展開できれば人は労働に過度に悩まされずに済む。
だが、労働時間の文脈のみでここまでの極論を主張できるロジックは不明である。
ゆとり教育も一部では同じように論じられた。
詰め込み教育は絶対的悪になる時代であると。
今では体罰は絶対禁止だし、詰め込み教育も大部分が否定された。
だが、世界は思った通りにはいかなかった。
ゆとり教育を受けた世代はゆとり世代と揶揄され、何にも関係ない変化まで併せてゆとり教育のせいにされ、見下される対象のような風潮が作られた。
働き方改革も同じような気がしてならない。
そもそも時間の長短を基準に絶対的な悪を定義するには無理がある。
現実に目を向けて長時間労働のリスクとリターンを比較してみる。
もちろん、ゼロベースで物事を考えたときには労働時間が短くなれば労働者は自分の時間を労働以外により多く費やすことができるようになる。
が、その副作用としていくつかのことが起こりうる。
長時間労働をさせる企業は悪い企業だと仮定して、いついかなる状況も労働者は定められた時間だけ働き、会社状況に関わらず帰るものとする。
するとどうなるだろうか?
人や省人化投資を確保できる会社ならばいいだろう。
人を増やせばいいのかもしれない。
お金の力を使ってテクノロジーに頑張らせればいいのかもしれない。
だが、もしそれが叶わない場合
増えた人員に支払う給料で会社の業績を圧迫するようになったらどうだろう。
省人化投資をして、十分な回収までにものすごく長い期間がかかり、その間の業績を圧迫したらどうだろう。
会社はつぶれる場合が出てくるだろう。
会社がつぶれたときに、もちろん経営者は責任を取らねばならないが、労働者も職を探さなければならない。
つまり、新しい職場を探さなければならなくなる。
その間、収入は限定的になり、長時間労働とは違うが非常につらい期間が待っている。
それは幸せだろうか。
つぶれるまでいかないまでも、競争に負けて成長を逃したり、利益が減ったりして再投資のチャンスを逃す場面は多数出るだろう。
これは利益を後でも得られる場合は後にして構わないが、たった一回のチャンスを逃す場合もあるだろう。
この際、労働者は責任を取る必要はないが、巡り巡って労働者への還元が期待できる部分を切り捨てている。
これは幸せだろうか。
長時間労働しても成果を出して、会社をつなぐ時期があることすらも悪といえるだろうか?
非常に疑問である。
反対に高校受験や大学受験は“限られた期間内”に集中して時間を費やして合格を手にする側面を持っている。
そこに定時はなく、必要なことを必要なだけ受験日という期日までにやったかどうか?という判定がなされるだけだ。
そこには勉強時間の多寡の議論など存在しない。
むしろ多い方がいいとすら言われる。
同時に限られた期間の取り組みであることからいかに密度を上げるか、効率を上げるかも非常に力を入れて議論されている。
勉強よりもビジネスの方が苛烈な世界なはずであるが、それでも長時間労働を絶対悪とみなしたがる状況に疑問符が付く。
財力があるものが財力を使ってさらなる財力を手に入れることが非常に合理的なように、体力があるものが体力を使って長時間働き、短期間で他者よりも優れた結果をもたらす事も合理性がある。
そして、それが返って人生にとって合理的な場合もある。
それを切り捨ててまで悪と認識しなければならないだろうか。
また、たしかに経営者が辣腕で十分に余力ある企業運営ができているならば全員そんなに働かなくても世界は動いていくかもしれない。
だが、現実はそうではない。
経営者の手腕にはばらつきがあるし、100戦100勝の経営者はそんじょそこらには存在しない。
つぶれる会社はたくさんあるし、競争過程で差が生まれる。
経営者が優れていても、労働者の質が付いてこなければ実際の結果に結び付かないこともある。
仮に上記に言うような経営者としての資格があるかないかですべての企業が振り分けられるとしたら世界は幸せになるだろうか?
事実、長時間労働は経営者の才覚や労働者の質だけが問題ではないのだ。
業界構造上、長時間労働を必要とする場合もあれば、企業の存亡をかけて必死に働いている場合もある。
上記のようなケースでは”労働者全体”ではなく関連する個人にとって長時間労働することが彼らの利益になることからやっている場合も存在する。
仮に彼らの言い分が正しかったとして、経営者が全員辣腕になって長時間労働しなくても儲けが出る仕組みを追求したとしよう。
何が起こるだろうか。
少ない時間でも成果を最大化させるためにお金にならないものはすべて手抜きをさせるだろう。
お金になる部分は強気にお金を取る仕組みに変え、最終的には消費者に大きなインフレの波が来るだろう。
日本人的な礼儀や筋といった部分は無視しても、少ない労働時間で成果を最大化することを考える。
人に還元するのではなく、人以外の労働を担いうる何かに投資を繰り返し、極力人の介在しない状況を作る。
あるいは、単純に規模縮小を行う。
夜にいつでもやっているコンビニは時給が高いし売り上げも低いから閉じてしまおう。
となるかもしれない。
夜間救急は長時間労働を招くし、コストも増える。収益貢献率が低いからやめてしまおう。
という病院も現れるかもしれない。
そう、行きつく先は決して消費者や利用者を第一に考えた形にはなるとは限らない。
改革の結果が労働者の利益に資するものにならない可能性も十分に考えうる。
今当たり前に享受しているサービスや製品は対価が上がるだろう。
これは労働者も含めて人にとって幸せだろうか。
長時間労働を絶対悪とするにはあまりにも影に隠れている利益を無視しすぎている気がする。
同時に、時間当たりの成果をより上げるための努力が労働者に突き付けられている。
これは時間を使うよりもはるかに難しい課題である。
単純な時間で区切る働き方改革は人を幸せにするのだろうか?
長時間労働を絶対悪とする主張は人を幸せにするだろうか?
主張する側はこういった過激な主張をすることで食い扶持を稼いでこともあるだろう。
言いっぱなしでよければ、それはそれで幸せかもしれないが。。。
結局のところ、この働き方改革の流れを利用し、労働者個人が不利益を被らない働き方を追求できる雰囲気に乗じて自らの立場を向上することはかまわない。
働きたくない人は無理して長時間労働をしなくてもいい。
意図しない企業への粉骨砕身を強制されなくていいと認識していい。
労働者を食いつぶさんとする企業から逃げていいことを理解していい。
だが、絶対悪とすることはできない。
長時間働いた方が得な場合は長時間働いてもいい。
結局、労働者であっても競争環境にいる以上、激しい競争にはハードワークがつきものである。
特にハードワークを礼賛するような主義の相手と戦う時は。
世界は日本だけではない。ハードワークを礼賛する世界の相手もいる。
そこに競り負けても働き方改革は自分たちを救ってくれない。
そういったリスクもすべて飲み込むなら構わないが、一律に悪とするには限界がある概念なのである。
改めて、自分の労働については自分自身で価値を高め、守っていくことが求められる時代になった。
自分の労働人生を企業には依存できないが、改革後の制度にも依存できないということも理解しなければならない。