ドラゴン桜 (ドラマ) が好きだった話
どうでもいい話を挟みます。
昔、ドラゴン桜というドラマがあった。
04年だったか05年だったかな?
もう10年以上も前の作品ですが、それに非常に強い衝撃を受けた。
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そもそもは漫画が原作で、ドラマは割とオリジナルシナリオを混ぜたものだったが、阿部寛の怪演と相まって当時も人気だったと思う。
そう、山下智久主演でガッキーがギャルっぽい役どころで出てたやつ。
それ以外にもことごとく長澤まさみや小池鉄平などその後ブレイクするキャストだった気がする。
キャストはさておき、このドラマがちょうど思春期のそこのお前の心を強く打ちました。
大学受験をテーマにする題材で未成年にインパクトがあるようなテイストに仕上がっているんだが、本当に示唆に富んだセリフやシーンと共に印象に残っています。
ストーリー自体は偏差値30代の高校生が1年の受験勉強で東大に入るというものなのだが、それ自体が現実的かはさておき、東大受験が2000年時点でどんな難易度なのか、受験勉強とは本質的にどういった特徴を持つ取り組みなのかを非常に論理的に解説し、よりオープンにした作品だと思う。
当然、受験の現場からは賛否両論わくわけだが、これによって、従来の受験バイアスを取り去るきっかけになった親や生徒もいるんじゃないかと思う。
今でいえば林修なんかも割と近いことを説明している部分もあるし、東大だけでなく受験自体を考えるきっかけになる作品だったと思う。
今日重要なのはそういった社会的な影響ではなく、子供ながらに感じたことの話。
そこのお前はゆとり世代ですが、このゆとり教育全盛のタイミングで
詰め込みこそ教育の本質だ!
と煽ってみたり、
勝つことでしか道は切り開かれない
とか
今いる状況から抜け出す道は二つ。
一つ目はドロップアウトする。
二つ目は辛くても現実を認め、ゼロから歯を食いしばってやり直す
とか
一時の感情に惑わされず、目の前の利益を取れ
とか
個性や無限の可能性だなんて下らん幻想だ
とか、人が知ってても認めにくい正論をこれでもかとぶっ込んでくる。
思春期にしては結構衝撃を受けた。
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こういう話って耳が痛い。
今考えると、正論だし、そういう行動をすることに葛藤は生まれるし、何より自分自身を強く律しなければできない行動だと思う。
特に自覚があればあるほど、耳が痛く、意図的に目をそむけたくなる。
皆さんがこのドラマあるいは誰か登場人物に共感したり、憧れたりしたかはわかりませんが、個人的には阿部寛演じる桜木に超絶衝撃を受け、ああなりたいと思ったものでした。
あまり歓迎されないこともズバズバ指摘し、強い感情的な反発も冷静に強く説得し、今何をすべきかを浅く押し付けずにきちんとわからせる。
フィクションゆえの主人公補正な演出もありますが、それも含めて、こういう強さにあこがれました。
大人として成熟し、慣れていけば自然とそういった行動ができるようになるかと勝手に思っていたんですけど、現実にはそういうものではないですね。笑
自分もそうでなければ、他の多くのそこのお前が所属したチームの上司でもそういった力強さを持っている人は少なかったです。
事実、そうなり切れない要素がたくさんありすぎるのですが、そもそも、そういうスタイルは現代社会はウケが悪いんですかね?笑
時代は確実に強い上司から優しい上司を求める方向に向かっているようですから。
あのストーリーのように、びっくりするほど高い目標を抱えさせ、進む側にも退路がない。といった状況は稀で、あのスタイルがハマる場面は現実にはあまり多くはないでしょうから、あそこまで熱く過激になれるような状況はほとんどないとも言えます。
それでも、そこのお前にとってはもう10年以上たった今でもたまに思い出すぐらい心に残っていますし、弱気になった時にはもう一度自分を現実に引き戻し、折れそうな心を強く保つ起爆剤になったこともありました。
これぐらい強いメッセージとぶれない目標設定を軸に淡々と必要なことを実行するようにドライブをかけてくれる上司について経験を積みたいと思っていました。
仮に自分が管理職になったとして、どんな人物を目指せばいいかということを考えたりすることもありますが、これぐらい毅然とした強さを持てるような人になれたらまた一つ夢がかなうなぁなんて。
もちろん、そうなることが目的じゃなくて、そういう風になって、理想的なチームを構築できたら、本当にものすごく長~~い人生の伏線を回収して達成感や充実感が溢れてくる気がします。
ま、そこのお前のいつものパターンでは最終的にはビビって、下手くそらしくその場に迎合していくような気がしますけどね!
憧れは憧れのままでいた方が綺麗かもしれません笑
そんじゃ!
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人生の幸福は自分が後悔しないと腹をくくれる選択をした数で決まる
人生数十年生きてきて、なんとなく体感したことがあります
人生の幸福は自分が後悔しないと腹をくくれる選択をした数で決まる。という話です。
とはいっても、もちろん、客観的なステータスや定量化された基準が幸福度合いに影響を与えます。
それも間違いありません。
もらえるお金が多ければ幸せですし、多くの人々に注目・称賛されればそれも幸福です。
それは多くの研究結果が証明しています。
年収の多寡の幸福の多寡の曲線にしてもスポーツの結果にしても相対的に優れた結果を残している人の方が幸福度が高くなりやすいという事は紛れもない残酷な事実です。
そのため、どうしても相対的に不幸や幸福を感じるという環境からは逃げにくい状態にあります。
これを極めていくと、自分の幸福を競争や比較に依存するケースでは何かで一番にならない限り決して幸せが訪れない理屈になります。
特にインターネットが一般的になった社会においては非常に難しい課題です。
昔は「隣の芝は青い」程度で済んだものが、ネットを少し探せば「全世界で一番青い芝」が否応なしに目に入ってくるわけです。
副業で稼ぎまくってセミリタイア!
とか
史上最年少で昇進、過去史上最大の実績を出し続ける!
なんて言葉や他人の実績が怪しく心を揺らします。
うらやましくないかと言われればうらやましいと思うことは否定できません。
とはいっても、人生の幸福が客観的ステータスや定量化可能な基準によってのみ決定されること決してありません。
誰かに共感されるかはさておき、自分の中で留まる絶対的な幸福もあります。
それがタイトルです。
自分が決めたことかどうか
まず第一にこれが重要です。
腹を括る括らない以前に自分が決定するまたは決定したと思い込むことが何よりも重要です。
おれはそう決めた。だからこれで失敗してもしょうがない。
そう胸を張って思えるかどうか。という事です。
後悔しないと腹を括る
そしてその次に自らの決断の内、どういう結果になっても後悔しないと腹を括れる選択や行動が多ければ多いほど幸福や充実を得やすいことになります。
失敗したとしても最大限の策を講じたし、自分がその時取りうる最善の判断をした
これはその時、その時代、その場所、その環境によっても大きく変わります。
だからこそ、比較できない個人の中に留まる絶対的な感覚なのです。
そして、これは他人からは理解されない場合も多くあります。
自分が決めたからやるという考えが最も根源にあるため、決断内容と過程に普遍性があるとは限らないのです。
それでも、これが自分自身を積極的に肯定するためのスタート地点です。
自分自身が人生の選択に失敗に失敗を重ねていると思っている状態ではなかなか自分自身を肯定しにくいわけです。
逆に、結果はどうあれ、自分自身はその時最善の選択をした。
そう言えるのであれば自分で自分を否定しなくて済みます。
それだけで不幸という状態をある程度避けることができます。
これはなんとなくありのままの自分でイイという話ではありません。
自ら決定し、自ら行動した結果を受け入れるという人生における取捨選択の主導権の話です。
これらをいかに自分自身の決定とできるかどうかが大きなポイントです。
これは心理学でいうところの自己決定感です。
若いころに何をしても満足できない、あるいは、いつも何かに飢えているような感覚があるのはそれも原因があると言えます。
年が若ければ若いほど、全て自分で決定して人生を構築するという経験ができない環境に陥りがちです。
なぜなら、いつも親や教師などとても抗えない誰かに何かを決定されますし、自己決定することの幸福感もまだきちんと感じることができる段階にありません。
大人になってくると徐々に自分で自分を決定する機会が増えてきますが、ここでビビってはいけません。
自らの思考と勇気で決断するという練習を積み、決断する技術を育てておく必要があります。
逆に言えば自分自身にそう思わせることができるかどうかかもしれません。
ある種、自分自身を洗脳する技術です。
この感覚と技術、現代では結構得やすくなってきたはずなんです。
例えばキャリアにおける充実・幸福を例にとります。
ずっと一つの会社にいることが幸せだと思えるならばそれでも良いでしょう。
そこに確かな自己決定がある限りはいい状態と言えるでしょう。
その一方で、現在では転職も一般的になりましたし、それに伴う負荷も下がってきました。
副業を行う流れも出てきましたし、労働負荷を下げる流れが主流になり、様々な選択肢が手元に用意できる状態になりました。
つまり、働くという行為に対して自分自身が主導権を握ることができる時代になってきたと言えます。
インターネットの台頭は上には上がいるをめちゃくちゃ絶望的なまでに見せつけますが、同時に様々なやり方や方法を教えてくれます。
これは本当に便利な時代になったと思います。
自分で決めたうえでギャンブルに身を投じることができる場合はそれで構いませんが、めちゃくちゃなギャンブルに頼ることなく、自分自身と会社をマッチ具合を確認する手段が豊富にあります。
そのため、今までは割とコンサバめだった人たちにも消極的選択ではない積極的な自己決定への障壁が下がってきて、自分の中での決断が下しやすい環境になってきていると思います。
割と計算づくでコントロールできる時代が来ています。
逆に選択肢が多すぎて決めるための努力が必要とされる時代にすらなりました。
そこのお前はまだ転職経験はありませんが、社内での異動部署を決めるにあたって、会社の言いなりになるのではなく、自律的に決定できたことが大きくキャリアを前進させるきっかけとなりました。
ただ、ここに異動ね!などとは言われず、自分でここならば行く意味があると思いますと積極的に宣言して異動できたことは非常に大きな意味があったと思います。
自分で決めることがパフォーマンスの向上にもつながりましたし、他の選択肢のタラればを考えず、決断したシナリオで最善を目指すことができるようになりました。
下手に何でも知っているより、限られた情報と取捨選択した選択肢に基づいて全力を尽くす方が反って自分を否定しないで済みました。
まとめると以下の2点が重要になります。
迷わずに全力を尽くしているという充実感
自分が最善の選択をしているという思い込み幸福感
実は、これは心理学および脳科学的な観点からも実証されています。
非常に簡単な話ではありますが、あるゲームをする時に、使用する道具を自分で選ぶか無作為に与えられるかでも脳の活性度合に差が出ることがわかっています。
つまり、同じ野球で同じ場面で打席に立つにしても、自分でバットを選ぶか、前の打者が使ったバットをそのまま使うかの違いだけでも差が出ることになります。
自己啓発書などが自分が使う道具にお金を掛けろというのはそういった効果を狙わせているのかもしれません。
自ら投資したり、積極的な行動を起こすことで自己決定感を高め、ポジティブな感覚を積み上げることでいい結果を生み出す一つの例ですね。
実際、人生でなかなか味わえない希少価値のある充実感が存在します。
誰かと結婚する時がそうかもしれません。
自分が抱いていた夢をかなえた時かもしれません。
自分の限界を打ち破ったと実感する時かもしれません。
これらは全て自分が決定した何かでないと幸福感は最大化されません。
ですが、現在の社会では全て自分で決定したものだけで生きることはできません。
ある程度定められた義務や最低限の生活を維持するために自分以外のために生きる時間やコストを支払わなければならない状態は存在します。
この状況にあって、これを単なる義務ととらえるか、むしろ自分自身の中で別の目標を併設し、自分自身の主導権をもって上記の状態を律することができるかが重要になります。
イヤなことをやるにしても、自分の中で必要であることを理解した上でやると決定したと思い込むことで人はパフォーマンスは低下を防ぐことができるのです。
決断自体が幸福をもたらすことはありませんが、決断した後の行動には少なからずいい影響がもたらされます。
この自己決定を伴う行動でよいパフォーマンスが出ることで報酬を得たり、自らの決定や目標を達成することでさらに強い自己肯定感と充実感を得る可能性を高めるわけです。
だから、自分が後悔しないと腹を括れる選択が多ければ多いほど人生は輝くのです。
健全な自信を持つということ
最近、自己肯定感という言葉が躍っている。
この言葉をあらゆるところで聞くようになったのは逃げるは恥だが役に立つ以来だろうか。
元は漫画だが、ドラマの影響おそるべしである。
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様々な場面で頻出単語になって、より多くの人が認知するところとなった。
そこのお前もすごく好きな言葉だし、多くの人にとって必要な感覚であることは間違いないと思う。
最近はほめて伸ばす教育が隆盛だが、それと同じものだと思う。
ただし、これを無制約にいかなる時でも持たなければならない感覚であるとするには無理がある。
が、身の回りにはこの言葉の持つ魔力に縛られて、中毒になりかけている人が存在する。
自己肯定感をきちんと理解してなかった人の末路
知り合いにこんな人がいた。
その人は自分に自信があった。少なくとも入社前までは。
自分が比較的優れている状態であれる環境にいたため、絶対的な優位と混同していた。
彼の出た大学からは彼が史上初めてその会社への門を叩き、周囲からも尊敬の目線を集めた。
家柄も非常によく、育ちもいいため、大切に大切に傷つけられないように育てられた。
だが、入社後、社会人の先輩方、ベテラン勢、上司と比べて自分に高い壁を実感し、思い通りにいかない日々が続いた。
彼は腐った。まだ1年目だったが、腐った。
彼はもがいていた。なかなか思うように結果が出ない状況で彼は彼の持つ自信がへし折られてしまった。
だが、どこで聞いたのだろうか。
自己肯定感の欠落が著しいことに問題があると認識したようで、自分はほめて伸びるタイプであると周囲に強調するようになった。
だが、褒めるところといってもかなり限られているし、ここを改善したらいい!というフィードバックだとかここが問題だから修正してほしいといった要望にも素直に従えない状況の中、「指摘や叱るのは逆効果です。いいところを教えてください。これ以上自信を無くしたくないです。」と突っぱねるようになった。
言いたいことはわからないでもないが、それを聞かされる指導側や上司はたまったものではない。当然反感を買うこととなった。
結果的に、彼は目が出ることなく、やめてしまった。
彼はきっとどこかで自分の中でのぼろぼろにされた自己肯定感をつなぎとめる方法を探し続けるだろう。
どういうわけか自己肯定を勘違いし、周囲に自分を肯定させるように変わってしまったが。。。
強い自己肯定感と健全な自信とは?
この自己肯定感にはいくつか種類があると思う。
便宜上、下記の定義で分類するが、主にこの4種類がもっともポピュラーな自己肯定構図だろう。
1、他人の評価が違ったとしても、自分自身の考えや行動、能力に自信または誇りをもっている積極的自己肯定
2、諦めに近いが、今の自分でよいと自分で自分に課した要求を取り外し、現実を受容する消極的肯定
3、他人の評価や競争において、相対的に良い位置にいることで得られる優等感による相対的自己肯定
4、誰かから必要とされている時、または自分が他人にとって意味があると実感できる時に生まれる受動的自己肯定
他にも種類はあるが、ひとまずはこの4種類からスタートする。
このうち、1と2は自分で自分を肯定することである。
3と4は他人または環境が左右する他人から“与えられる”自己肯定感である。
1は時に暴走するが、自分自身に対して積極的な肯定をする最も強度が高い自己肯定だ。
2は今の自分を許す「まぁいいか精神」。妥協と呼ばれたりもするが、過度に自分を追い込まないための防衛機制の働きの一つである。現実と理想の乖離が激しい時に必要な物だ。
3,は何らかの比較可能な指標において優勢であることが条件となる条件付き自己肯定であり、いつでも自己否定に陥る可能性がある。
4,は自分の存在を他者に求める最も強度が低い自己肯定感といえる。自分を大切にするというよりは相手に求めてもらうという自己消失に近いものだ。
様々な自己肯定が混ざり合いながら、満たされない想いと理想と現実の乖離による苦悩から更なる自己肯定を求める。
だが、今、世の中の大半の人が自己肯定感という5文字しか認識せず、ただやみくもに肯定感を生み出そうとする。
そもそもこの自己肯定感だが、無限の絶対的自己肯定は現代にはほぼ存在しない。
昔の王様や皇帝などはそれに近いものがあったが、現代においては数的には絶滅寸前である。
つまり、非常に流動的で永続性もない感覚であり、VUCAでネットによる世界中との比較で上には上がいて、世の中に代わりがなんぼでもいることをいやという思い知らされながら生きる中で、希少性が高まっていることは間違いない。
さて、この知り合いの場合はどうだっただろうか、自分で自分を肯定していたころから、いつしか、自分で肯定できる部分がなくなった。
同時に、諦めてもいなかったから2番の消極的肯定も避けた。
いい心がけだが、その後がもうなかった。
結果的に、彼は他人が自己肯定感を尊重するように要求するという手段に出た。
これは、このほど教育のトレンドの変化やパワハラの浸透とも相まって、非常にデリケートな話題となっている。
自己肯定感を育てるために褒めなければならないとか、自己肯定感を持たなければならないから無理に自分を肯定しようとか。
SNSでの偽の自分を演出したりするなど、ある意味自分に嘘をついて自分自身をだましている瞬間すらもある。
だが、本質的に生きる上で重要なのは他人や会社から与えられる自己肯定感ではない。
なぜなら、会社や他人は無条件に欲しい内容で肯定を与えてくれるものではないからだ。
必ず、何かの条件と方向性がある。
だが、自分で自分を肯定するという技術によってもこの自己肯定感という代物を獲得できる。
この場合、ちょっとやそっとの逆境では失われない自己肯定感を醸成することができる。
つまり、強い心を持ちたければ、自分で自分を肯定する技術を身につけたほうがよいということだ。
実は、褒めることばかりで育てられると、この自力で自己肯定する技術を習得することが難しくなる。
叱られたり、劣等感を感じる機会を極端に制限された環境で、自分で自分を肯定するという経験が少なければ少ないほど苦しい状況を跳ねのけるバイタリティの元になる自己肯定感と自信を自分の中で守ることができなくなる。
ずっと負け続けた相手についに勝った。
ずっと短所と思い込んでいた部分を生かして長所とする戦い方を編み出した。
とても苦しい状況で、周囲も諦める中、最後まで自分を信じ、最後に成功をつかんだ。
自分がやりたいと思ったこと、始めたことを限界を超えてやり抜き、人生の糧とする。
上記はわかりやすい極端な例だがこういったゼロやマイナスのスタートから積み上げてプラスに転じる経験を積み上げなければ自己肯定感を自分で獲得することは難しい。
すると、人や環境から与えられた肯定を自分で生み出したものだと勘違いし続けてしまう。
今、変化が早く、常に進化を求められ、陳腐化や機械化などの時代の波に対応して戦うには、他人から与えられる自己肯定感の賞味期限は恐ろしく短く、少ない。
だから、自分自身で自分を肯定していく技術がなければならない。
過去に自信を持てなかった領域を少しでも改善し、今まで手に入らなかったモノを手に入れ、自信を持てるようになった成功体験を持とうとすること。
そして、他者との不要な比較はせず、日々、努力し、進化している自分がいると認識すること。
自分ができること。
自分ができないこと。
これらを見極め、素直に受け入れ、直視して必要であれば乗り越えるために努力できる自分であると言い切れること。
把握するように努め、成功への道筋をたどっていくことができると信じること。
そして、いま直面している壁も乗り越えられるまで努力できるはずだと強がりなしに信じることができること。
これが持つべき健全な自信のはずだ。
そして、その道筋に乗っていることを確かめながら、自分を認め・鼓舞することが自己肯定感のはずだ。
先の知り合いにはそれができなかった。自分ができないということを認められなかった。
他人から与えられる自己肯定感にこだわるあまり、明確で論理的な指摘を受け止めることができなかった。
それは彼の自信のなさの表れであり、そこから目を背けることで自己肯定感を得るための唯一の方法を失った。
結局、地道に努力を積み重ね、昨日よりも今日。今日よりも明日。明日よりも明後日。
これを積み重ねることでしか強い自信を持つことはできない。
そして、その積み重ねでしか自己肯定感を獲得する方法はない。
他人から無理やり与えられる自己肯定感などただの養殖物である。
継続は力なりとはそういうことである。
だが、現実は難しい。
そう簡単に自信を持たせてくれないものである。
上手くなったと思ったらまた元に戻っていたりする。
少しできるようになったとしても、できないときもあれば、ミスをすることもある。
ちょっと自信があったエリアから見知らぬ環境に一歩を踏み出すことは非常にビビることである。
まるで、寒空の下で家からきて来たコートを脱ぐように。自分を包んでくれる温かい衣がなくなる。
その状況で一から自己肯定感を育てるには忍耐を必要とする。
その状況でも、安易に自己肯定感を手に入れる方法が必ずしも正しいとは限らない。
暖かいところからよりも寒いところから暖かいところに来たほうが一層温かさのありがたみを感じるのと同様で、苦しんだ期間や粘る期間も同じく重要な過程の一部なのである。
同時に、自己肯定感もどういう部分を肯定したいかを自分で識別しなければならない。
なりたい自分になった自分を肯定しなければ意味がない。
妥協した自己肯定感は長続きしない。
妥協の先には次の妥協が待っている。
だがら、ただ苦しい状況から目を背けたいことを肯定する安易な方法に惑わされてはいけない。
自信を持つことをより意味のある財産と感じるためにも安易に手に入れる方法で満たすのは本来の効果を失わせる。
それは歩みを止めることだから。
進化を止め、低いレベルの自己肯定感を求めてさまようだけだから。
時には逃げることも重要だが、自分に対してウソをつく逃げ方をしてはいけない。
本来はそういったことも併せて教えられるべき概念であると思う。
だって、自信を持つことはそう簡単なことではないのだから。
やらされる仕事からやる仕事に変貌する瞬間
人はいつ化けるかわからない
というのがそこのお前の持論なのですが、そんな瞬間を書きます。
。。。。
そこのお前は漢字練習の時間が超絶苦痛だった。
ただただ漢字をなぞり、止め、跳ね、はらいが少しでもだめだと減点されて、字が汚いことを延々と指摘され続ける苦痛の時間。
ただ、漢字の勉強を能動的にしたきっかけがある。
子供ながら漢字検定のように合格・不合格と点数が学校のクラス規模ではなく全国規模になることに興味がわいた。
クラスの国語の時間だけの面白みのない存在だと思っていたのが、日本中で年も何も関係なくみんなが受けるという試験の存在で一気に自分の中で好奇心と競争心をあおるものになった。
これを感じて以降、ぐっとやる気が出るようになった。
そして、常用漢字の範囲においては十分なレベルの漢検2級を小学生6年生で取得した。
相変らず、字は汚かったが、それでも自分なりに丁寧に書くように努力をするようになった。
時間もかかったが単純に努力が結果という形で報われるのがうれしかった。
中学校に入った
相変らず、学校の授業はさして面白くないし、成績の良しあしもあまり興味が持てなかった。
受験に備えて多くの人が内申点集めに必死になり、学習塾で試験対策を行うようになり、ノートをカラフルできれいにまとめてみたり、態度が良く見えるようにアピールしてみたりする中でどうにも興味を持てずにいた。
ノートは依然汚い字で、色もなく、板書をちょこちょこっと書く程度、態度に至っては積極性ゼロ。
それでもテストの点だけはなぜかそこそこよかった。だから、そこそこの勉強量で、そこそこの点数が取れればそれでいいと思っていた。
が、高校受験がすべてを変えた。
寮生活ができる学校があった。
そこのお前は寮に入りたかった。
そう思った瞬間から目の前が違って見えた。
勉強もやり方を変え、積極的に教えを乞い、自分の足りないところ、できないところに非常に敏感になった。
そして、自分が元々できるところももっとできるようになろうという風に変わった。
高校に入った
念願かなって寮生活もしたし、なんとなく続けた野球も異様にきついだけで目が出ず、なかなか目標もモチベーションも見いだせない中、なりたい職業が見つかった。
今では全く違うが、当時は弁護士になってみたいと思った。
以降、改めて勉強するようになった。
野球はどうひっくり返っても甲子園には届きそうにないが、法学部と弁護士は頑張れば届くという気持ちがわいてきたからだ。
野球とは大違いのモチベーションで取り組むことができた。
そして、そこのお前は法学部への切符を手にした。
大学に入った
念願かなって法学部に入ったものの、やはり成績に興味がなく、弁護士に対する魅力も薄れていた時に既存の国内法曹とは全く別の枠組みの国際法というフィールドに立った。
英語が苦手だったが、縁あって英語で法律について議論する場を得た。
この国際大会に参加することになったのだが、歴史的に日本人は英語が堪能でないことから、非常に弱かった。
国際大会の外国人は皆一様に、日本は頭いいけど、しゃべりが弱いよね!って言っていた。それも欧米系の英語ネイティブではなく、普通の他のアジアの学生にそういわれるのだ。
今まで日本で受けてきた、日本は世界的には素晴らしいという刷り込みは音を立てて大きく崩れ去った。
その弱い日本の中でもさらに弱いそこのお前にはとても深い劣等感の原因となったが、同時に強烈な闘争心ともう一つの感情が芽生えた。
純ジャパだって海外にもっと接点を持てるようになりたい。
日本人でも海外で普通に勝負できるって海外の人に証明したい。
日本人も海外で普通にやっていけるって認識できるようになりたい。
そして、そこのお前は外資系企業に入ることを視野に入れ始めた。
会社に入った
日系企業に入って集団として世界展開する道ではなく、外資系企業の中にあって個人として日本人が世界の中で活躍できるという認識を広めるために。
最初はバカにされたような目で見られた。
意識の高い最近の現実が見えていないゆとり世代とも言われた。
日本特有なのか知らないが、日本の方が優れているから海外なんて目指すなという人もいた。
だが、そこのお前はつかんだ。
海外で日本人が身一つで挑む環境を。
まだまだ道半ばであるが、それでも着実に進んでいる実感はある。
。。。。
漢字検定にときめいた瞬間から、もっと広い世界に飛び込むことが好きだった。
ちょっとでも自分の世界が広がることを感じる瞬間が楽しかった。
今はそういう好奇心の充足を求めて生きている。
いつの日も、勉強のための勉強、練習のための練習、学校の成績のための努力はできなかった。
それが高いレベルでできる人をうらやましく思うこともあるが、どう頑張ってもマネできなかった。
ただ、その先にある意味や目標が認識できた時に初めて強烈な行動力が生まれた。
勉強や練習、成績向上が手段およびプロセスとして認識された瞬間から怠惰な感情を持たないで済むようになった。
やはり、人間はそうでなくては。
目標の達成のためなら、どんな犠牲も払う価値がある。そう思えるほどの目標があればそれはとても強い動機になる。
時として毒だが、それでもこの強い気持ちなくしてはバイタリティも生まれないし成長は最大化されない。
だが、それは人が狙って作ることは難しい。
そこのお前にもきっかけをくれた人はいるが、これらの強烈な動機たちを狙って作ることができた人間は一人もいない。
自分ですら狙って作ることができたことはない。
環境と運がもたらす一瞬の火花がたまたま大きな火をつけ、輝きをもたらしてくれただけだ。
その結果、あとから見れば大きく化けたことになるが、それはどこでどう起こるかわからないのである。
だからこそ、人生は楽しまねばならない。
そして、他人の狙い通りに生きなければと思ってはならない。
だが、自分でもコントロールすらできない自分自身の変化を自分自身が最も興味を持って眺め続けなければならない。
人はいつ化けるかわからない。
だが、化けるチャンスは一瞬の閃きであり、火が付いた瞬間を逃してはならない。
その瞬間、今やっていることや考えていることはやらされているものからやるものへ変わる。
やる仕事になった瞬間、バイタリティの出方は大きく変わる。