そこのお前の外資系勤務と与太話ブログ

凡人が行く外資系企業勤務やキャリアの与太話や裏話。緩いのと辛いのまぜまぜ。人見知りやビビりだって人生案外イケるじゃんって思ってもらうための与太話。毎週月曜・水曜・土曜日更新予定

相互リスペクトがない男女平等は理想どころか見るに堪えない程醜い件

平等論者の皮をかぶったクレーマーの話

 

男女差別でも年齢差別でも国籍差別でも宗教差別でも同じ話だが、お互いに敵愾心むき出しの論調で平等を盾にお互いを批判する光景は見るに堪えない程醜い。

 

これだから男は

 

これだから女は。

 

これだから日本人は

 

これだから欧米人は

 

なぜか個人や一部の話を全集団で括りたがる人がいる。

その方が話を分かりやすくすることもあるが、平等を語る文脈では気を付けなければならない。

 

そんな話。

。。。。。

差別発言者への攻撃はリスペクトがあるか?

 

世間的に求められるコンプライアンス要件が厳しくなり、SNSにて即座に全世界に拡散する環境になった今でこそ極端な差別発言は少なくなった。

かなり丸くなったが、それでもちらほら見かける。

 

あまりにも配慮のない発言に世界中から批判がなされることもある。

ネットにおける注目度が高まる分、非常に目立つ。

 

中には難癖、言いがかりレベルの過敏ともいえる反応もある。

が、体験や経験に基づいて実感がこもっている場合なんかは感情を否定はできない。

 

しかし、平等を実現しようという取り組みがある中で、相互にリスペクトがない主張が現実的に利益になりうる心の持ちようかどうかは考えたほうがいいかもしれない。

 

差別は男女差別に始まった話ではないが、昔からあらゆるところに「差別」と言えるものは存在した。 

 

そんな中で、現在の男女平等は女性の不平等を解消するところから始まった。

 

女性差別以外にも人権に基づいた様々な委員会や期間、団体が組織され、平等で公平な世界にすべく多角的な活動を繰り広げている。

 

男女平等についても、男性に比べて制限されている領域をなくすことを目的として勇気ある行動や毅然とした対応がなされるようになった。

今では、世界的に欧米先進国を中心に女性を優遇し、女性に制限がかかりにくい状況を作って不平等を是正するアファーマティブアクションが活発化している。

 

男性差別撤廃条約はないが、女子差別撤廃条約は批准国の数がそこまで圧倒的ではないものの確立された。

つまり、この世に男性差別はほぼ問題として存在しないというのが世界の認識だが、女子差別があるという認識は多くの人が持っている。

 

本当に平等度合いが劣後しているかはわからないが、欧米がもてはやす指標では少なくとも劣っている。

雇用

賃金

管理職比率

家事分担

育児分担

などなど

 

マクロ視点で見ると男性の方が有利で自由なようなのだが、実に様々な事例が混在している。

 

一概に「世の男は」と括ると、その時点で既にそれは男女の差を際立たせる。

 

日本でも男女雇用機会均等法に始まり、女性活躍推進法まで徐々に実効的で法的拘束内容の烈度が高い施策は生み出されている。

それでも欧米と比較して女性平等が遅れている国と言われており、まだまだ対策が必要だと叫ばれている。

 

実態はさておき、人口減の中で日本が国として戦略的に自力を維持するには刺激を与えることのできるステップだと思う。

国が法律として定めるにはそういった意味もこもっている。

 

そもそも、女性に限らず、LGBTも含めて性別だけを理由に何らかの制限がかかることは理不尽なことは間違いない。

もちろんそういう発展をしてきた背景には様々な文化的背景や昔には合理的だった理由がある。

 

だが、それは昔の話。

 

現代では世界の変化によって昔ほど男性の力や物理的体力等に頼らなくても多くの人間の生存活動は満たされるようになった。

 

狩りなどほとんどなくなったし、農業や漁業も昔よりも圧倒的に機械化が進んでいる。

 

もちろん依然として女性では到底手に入れにくい物理的体力が必要な領域は存在している。

スポーツでも肉体労働なんかは典型例だ。

 

現代は女性ができるかどうかを基準に肉体労働が設計される時代

 

様々な工場の現場や建築の現場でも昔よりも技術を駆使して人力に頼らない作業を増やしていることから女性でも就職がしやすくなっている。

業務設計も一般的な女性が対応可能な負荷かどうかを気にする場面は非常に増えた。

そして、それらは往々にして男性が考えている。

 

加えて、サービス業や事務仕事も含めた頭脳・作業労働の増加はさらに必要性を増している。

女性の出陣可能な戦場が拡大していることは間違いない。

 

男女分業をする必要性がないエリアが増えていることは間違いない。

 

そのような状況で性別による切り分けをすることはナンセンスである。

それはその通りであって、不要な切り分けは必要ないと思うのだが、どうにも腑に落ちない点がある。

 

リスペクトのない主張を展開する層の存在

誰かの意見や誰かの特定の行為を指摘・批判する分には構わない。

差別的な発言やルールなどは時に時代にそぐわず、常軌を逸していることがある。

 

が、これを攻撃的に「これだから男は」、「これだから女は」と一般的にくくりだした時点で、すでに破綻が始まっている。

 

実は男女平等の準備段階である女性優遇のステップにおいて、何を勘違いしたのか、女性の方が優れているのだから男性社会が問題であると糾弾する極端な主張がある。

 

今までは女性が折れてきたのだから男性が折れろ!と過剰に攻撃的になる場面が存在する。

 

そういう主張があるのは何か理由があるんだろうが、あえて男性を積極的に攻撃する意図に疑問を感じる。

これも女性優遇の文脈で律していかなければならないんじゃなかろうか。

 

それも女性平等を推進する側が。

 

 

こういった主張を男性側や社会側が少しでも反論するとそれだけで対立を生み出す。

逆に本当にフェアな平等を目指す過程では弱い立場にいるものが攻撃的になる瞬間を弱い立場側が抑えなければならない。

 

アメリカにおける黒人差別だって同じ歴史を持つ。

 

黒人が優れているとか白人が優れているとかお互いがお互いであえて優劣論を語る暴走部分が少なからず存在する。

 

そんな中で黒人組織が暴走して問題を起こして問題をややこしくした歴史がある。

ガンジーも非暴力不服従を唱え、決して攻撃しないことの重要性を意識づけている。

 

歴史的に、自分達が思い通りにならないことを不平等でないことに起因すると誤認して暴走することがある。

 

歴史は繰り返すものだが、男女平等の文脈でも男性への攻撃を許すとひたすらに男女対立をあおる。

 

お互いにリスペクトのない平等は成立しない。

 

それは単に足の引っ張り合いだ。

 

こっちの方が優れているけど、あえて合わせてやる!

とか

こっちの方が劣っているからお前らが合わせろ!

とか

これが始まると、どっちが良くてどっちが悪いとひたすらに差にフォーカスするようになる。

絶対にやめた方がいい。

 

永遠に埋まらない溝が作りたいのか?

 

もちろん、そういう場面が目立つように見えることはあるのだが、それが全てではない。

この構図に基づいて、「正義の女性が悪い男性を成敗する」というストーリーを野放しにすると手が付けられなくなる。

 

いつかは逆転して弱き男性を虐げる女性という主張にターンオーバーする可能性がある。

そのターンオーバーはまた逆のサイクルを迎えるかもしれない。

どこかで流れに逆らって連鎖を止めなければならない。

 

UN womenや女性人権団体が展開する女性を勇気づけるスピーチやプロモーションは素晴らしいものだが、その強いメッセージ性ゆえか、男性を攻撃する武器であると誤認する層も一定層出てきてしまう。

 

これは男性側だけでなく女性側も対処しなければならない問題。

 

 

お互いをリスペクトしない主張は控えなければならない。

 

時にはお互いに相いれない部分がある。

それが、目の前の限定的な現象においては男性に非があるように見えたとしても。

限定的な事実をもって男は!女は!と拡大推論することは控えなければならない。

 

男尊女尊でなければ終わりはない。

 

男尊女卑でも女尊男卑でもだめだ。 

尊敬しろ、優遇しろ!と攻撃的に言われて、はいそうですね!と素直になれるほど純粋で物わかりのいい問題ではない。

 

それどころか、男性側には男性側の言い分すらある。

男性が女性を下に見ているような発言をするとこれでもかというほど炎上させられたりする割には、逆に女性が男性を貶めることについては男性が寛容なのか不明だが、特に男女差別の文脈で語られることは少ない。

 

バラエティ番組でも女性から容姿や行動をいじられる男性芸人は数多くいるし、彼らもそれで金を稼いでいるからか気にしていないことにしている。

 

まぁそれも変な話だ。

男性側だって突かれたくないデリケートゾーンがないと言ったらうそになる。

 

なので、絶対優遇しなければならないとは思っていない。

男だっていい分は聞いてもらいたいものだ。

 

だが、基本的に男性=悪い強者、女性=良き弱者

の構図に固定してしまうと平等というバランスを維持する目的において苦労する。

 

だからこそ、お互いがお互いの尊敬を持たないと解決に至らない。

それに、生物である以上は協力・協調していかねばならない。

 

不可分な関係にある以上、もめごとが起きることは仕方がないが、それを助長するような平等主張だけは抑え込まなければならない。

 

いくら制度が整おうが、お互いがケンカ腰ではクソの役にも立たない。

 

男性でも女性でも個人として尊敬できる部分は尊敬する。

 

それだけ考えればいいだけの話。

 

お互いの欠点を突き合っていてはただただ傷つき疲弊するだけだ。 

 

そう思う。

【人間】偉ぶるのは気持ちいいっていう話【本能】

どうも人間として出来が悪いんじゃないかと思ったりします。

まぁまだまだ未熟な人間なのでしょう。

 

そこのお前は人生の様々な場面で自慢や上から目線など傲岸不遜な態度になる時があります。

 

悪く言えば調子乗り

それで痛い目を見たことも何度もあります。

 

それでも、人から褒められたり、よいしょされたり、下手に出てもらったりするのは何だか気持ちいいです。

不自然なまでに強調されるとムズムズしたりしますが、自己肯定感が高い時ほど気持ちよく感じやすいものです。

 

普段、理不尽に高圧的に接されたり、無理しても低姿勢が必要な時が多ければ多いほど、逆に偉そうにできる場面には少し解放感すら感じます。

 

本当にそういう態度をとるにふさわしい実力とか価値があるかどうかは不明です。

むしろ、そうでない方が多いと個人的には振り返って思うわけです。

それでもやっぱり、偉ぶるのは気持ちいい訳です。

 

人間の感情は本当に思い通りにならない

 

自分はすごいはずだって思いこむための防衛機制

自分は凄い!他の人も同じように思ってほしい!という承認欲求

自分が上でお前が下だ!と周りに攻撃する目的

などなど、様々な形で「偉ぶる」欲求が発生します。

 

それが気持ちいいと微塵も思わないかというとウソになります。

 

後で反省したりもするわけですが、放っておいたら心が勝手にそう動いちゃいます。

自分の不遜な態度を相手が飲み込むのを見て、「自分かっこいいな」なんて一人で悦に浸ってたりするわけです。

 

それが許される場合もありますし、意図的にそういう振る舞いをした方がいい場合もあります。

が、そういう場面は非常に限定的ですし、コントロールできている事なんて少ないです。

 

それ以外のほとんど全ての場面ではいいことはありません。

むしろ取り返しのつかないミスにつながる恐れすらあります。

 

本当はもっともっと世界を美しく収めてくれるやり方がある

 

常に謙虚で、相手をリスペクト出来る感性と表現力

相手を観察し、相手を気持ちよくさせる技術

自らの攻撃性を隠し、相手の警戒を緩める間合い

これらをきちんと実践できるならば、無意味なマウンティング合戦で気分を害することもありません。

 

あまりに相手に合わせすぎると都合よくつけこんで来ようとする層も一定層います。

無条件に低姿勢で謙虚であれという事はありません。

 

が、過不足なく謙虚で低姿勢でいられることは本当に大きな可能性を秘めています。

 

 

一流の営業マンや接客業のプロはこれらを技術として極めているのでしょう。

あるいはホストやホステスもそうかもしれません。

 

低姿勢で謙虚でいる技術

 

技術と取り扱うと胡散臭く見えるという方もいるでしょうが、そんなことはありません。

偽善者なんて批判する人もいるでしょうが、論理的には正しくても価値を成しません。

 

世の中、義務的に低姿勢になる時も多いですし、慇懃無礼な人もいます。

全てが自然に心から出るなんてありえませんし、それを「心から出ていない!」と上から抑えても心から出るものではありません。

 

心から出るなら心から出ればいいけれど。。。

 

何でも天然物が一番です。

食材は天然物のほうがおいしいことも多いですし、重宝されます。

髪の毛だってヅラより地毛の方がいいというのは偽らざる本音です。

 

謙虚さや低姿勢だって同じだってことは百も承知です。

ですが、義務的な低姿勢が世の中に溢れている以上、低姿勢を技術として取り扱うことを批判することはナンセンスです。

 

結局、義務的な行動と技術としての行動に本質的な違いはない

 

むしろ、あえて技術として取り扱う分、非常に効果や目的を意識した先進的なものになるとすらいえます。

意識の持ち方を安定させる技術です。

 

ただ、それらの技術を極める前に「偉ぶりたい欲求」を自律する必要があります。

 

「偉い=気持ちがいい」からの脱却 

 

これが最も重要です。

偉いことが気持ちいいという癖や感覚が抜けきらなければ永遠に満たされない感に囚われてしまいます。

アルコールのようなものです。

生まれた時から依存しているんじゃないかって感じなわけです。

 

なぜ偉いことが気持ちがいいのか

 

割と動物としての本能に切り込まなければなりませんが、基本的に強くて偉いとアピールすることは全世界共通で見られます。

ある時は権威で、ある時は物理的強さで、ある時は富の豊富さで。

 

心理学的には特に男性の方が傾向が強いという結果が出ているようです。

誰かより上に立ちたいという本能的欲求がこの心理を作り出します。

(あくまで傾向であって、女性には全くないということはありません。)

 

中学校で仲間外れにされた子が小学校の子を集めてガキ大将ぶってみたり、上司にはヘコヘコするのに部下には超絶強気な中間管理職がいたり。

自分の思い通りになる状況では強さや偉さを殊更に誇示することはよく起こります。 

 

その根源には卑しく振舞うのがあまり気持ちよくないという事があるんじゃないかと思います。

「卑しく」というと非常に侮蔑的な表現ですが、無条件に低姿勢で謙虚でいることは非常に難しいと言えます。

 

敗北や劣後、卑下・平身低頭など、自分を抑圧する言葉の抱くイメージは決して明るくありません。

 

理想の世界は何ですか?

と言われれば、多くの人は、何にも遠慮せずにありのままいいような理想の状況を皆思い浮かべる訳です。

 

時には自ら自由を獲得し、自信を持った成功体験が不遜な態度の原因になってることだってあります。

 

新人が成長した時に少し鼻っ柱が伸びるように、誰かが昇進した時に態度が傲慢になることがあるように。

 

理想的には身の丈に合った自信を身に着け、あくなき向上心と共に謙虚な心をもって世界に臨みたいものです。

 

ですが、それは超絶難易度が高いわけです。

 

文化や地域、環境によっても身の丈に合った自信の程度は変わります。

社会的ヒエラルキーや競争がある以上、偉い=気持ちいいというスパイラルから逃れるのは難しいと言えます。

 

それに、競争心や自己顕示欲・承認欲求が原動力になることだって多分にありますので、それらを一概に否定するのは無粋といえます。

 

偉ぶるのが気持ちいいという体験

 

これ、実は何らかのコンプレックスから出てくるものだったりします。

何らかの形で自分のコンプレックスや劣等感を克服した自分なりのご褒美だったりします。

頑張ったんだから偉ぶっていいぞ!みたいな。

 

財産状況を自慢する人は、昔思うように財産がなかった中で自分でつかみ取った。

とか

ステータスを自慢する人はステータスで人より劣っていた悔しい過去がある

とか。

 

逆に生まれた時からお金持ちで、何一つ不自由しない人はお金を自慢しませんし、さらに稼ぎたいという気持ちも生まれません。

ずっとトップをひた走ってきた成功者は成功自体を鼻にかけませんし、成功以外にも大切なものがあると言ったりします。

イケメンや美人に限って顔が全てではないなんて言ったりするものです。

 

自分が何かを克服したり、努力の末に勝ち取ったものに関しては人は自分自身のことを殊更にアピールしたくなるように心理的にできているのです。

 

本当に皮肉な現実ですが、自分の努力や苦労に比例して偉ぶりたい欲求も増す傾向があります。

 

 

ですが、この自分自身を自分自身たらしめる成功や自信への執着を捨てないと偉ぶる事が気持ちいいという体験から離れられません。

まるでジェダイの修行のようです。

 

一度染み付いた自分自身へのご褒美心は気を抜くとすぐ出てくる。 

 

実際、これを塗り替えるには

  1. 偉そうにする事で大きな失敗する
  2. 低姿勢・謙虚さを実践する事で大きな成功を掴む

等のように結構ドラスティックな変化が必要だったりします。

特に2点目は不可欠かと思います。

 

ただただ低姿勢でいなきゃ!と思ってばかりでは本質的な解決になりません。

その状況を克服したらまた元に戻ってしまいます。

 

なので、少しでも低姿勢で謙虚な状態による成功体験を積みたいものですが、そう簡単には行きません。

だからこそ年月がかかるのです。

 

一度尖った鼻っ柱を折られても、再度つなぎなおして、丁寧に尖らないように再研磨する。

過剰な自信、相手への甘え・要求する心など絡み合う様々な心を柔らかくして臨む。

 

非常に地味な、時にはもどかしい想いを積み重ねながら獲得していく必要があります。

運が良ければ衝撃的な体験を通して、身に沁みてわかる場合もありますが、それをアテにするだけでは不安定です。

 

あえて低姿勢を貫くことで相手から多くのことを引き出す。

低姿勢を貫くことで悪目立ちせず、平穏な日々を送る。

謙虚に相手に接することで味方を増やしたり、社会的つながりを広げる。

 

などなど攻撃的、高圧的なやり方では得られない何かを得るという体験がその技術を高めてくれるでしょう。

 

まだまだ道半ばなわけですが、コツコツと自分に染み付いた過剰に相手に対して誇示したい欲求を引きはがしていくことを意識し続けます。

いつか、技術が向上し、偉そうにしていては得られない大きな何かを得ることを夢見ます。

 

もっと成熟した人間になりたいよ~。。。

緊張がなくなった途端に思考力が低下した話

緊張がもたらす人生の充実感

 

そこのお前は一時期、仕事におけるプレッシャーが完全に抜けた時期があります。

非常に短い期間ではありましたが仕事において一息つくという状態です。

 

それまでは若手としてキャリアを積む過程でどんどん挑戦をしなければならない立場でしたので、年々強くなるプレッシャーに戦いを挑み続ける日々でした。

 

乗り越えるために努力する充実感や挑み、成し遂げた達成感はそれはそれで素晴らしい感覚をそこのお前にもたらしてくれました。

 

常に負荷をかけること日々が普通でしたが、ある日、体から重いトレーニング用ウェイトを外したようにフッと軽くなった時期がりました。

 

欧州の仕事にめどがつき、日本に帰るまでの時間を待つ日々

 

欧州でもそこそこ烈度の高いプレッシャーを常々感じながら仕事をしていたこともあり、急激に解放されたこの空白の期間に自分自身のバイタリティのやり場に困りました。

 

とは言ってもこのブログの記事を大量生産したのはその時期でした。

今考えるとキャリアや人生について整理をする上ではまとまった時間があるありがたい状況だったと思います。

 

考えていたことを整理・統合し、文章としてアウトプットするために潤沢な時間をもらえました。

 

それぐらい貴重な時間でしたが、期間限定であることが救いでした。

 

同時に、無限に続くと考えると嫌だなぁなんて鬱屈としていました。

むしろ、このまま何もプレッシャーの無い日が続くとハリのない日々になって充実感を失ってしまうんじゃないかとも思いました。

 

日本帰国後はこれまで以上に強いプレッシャーと隣り合わせになることを考えると「まぁこの時間ぐらいいいじゃん」と心の中で割り切っていたわけですが。。。

 

会社側からしたら何考えてんねんという話ですが、まぁぽっかり間ができてしまった偶発的な現象でした。

 

非常に稀なケースですが、以下の事情が重なりました。

 

海外勤務だったため、日本側の目の届かないところにいた。

海外側も帰ってしまう時期が見えていることから新しい仕事がほとんどなくなった。

帰国後の内示が出る前の為、誰にも言えず、内にとどめておく必要があった。

欧州での仕事自体が帰国後の評価に影響することがなくなった。 

上記4点により、プレッシャーのかかる緊張感のある仕事が一時的に消えました。

 

この時期に限っては目標や燃える心も仕事時間には存在しなくなりました。

約2か月程度でしたでしょうか。

 

これにより、自分には変化が起きました。

 

思考力の低下(鈍化・浅化)

やる気の低下

幸福度の低下

 

人からは仕事人間といわれるかもしれませんが、これが現実でした。

 

特に幸福度の低下には少なからず驚きました。

何をやっているんだろう・・・なんて思う日々でした。

 

むしろ仕事に追われ、過重残業していた時期は頃の方がツライはツライものの、毎日の時間を使う意義に疑問は抱きませんでした。

 

全力で働くと迷わずに済んだ

 

自分のやっていることが将来を支えるし、問題ないと信じることができていました。

 

同時にあれほど何も仕事に波がない平穏があったらなぁなんて思っていました。

が、いざそれを手にしたら逆に自分自身に自信や誇りが持てず、幸せとは言えない状況に陥りました。

 

いくら仕事がゆるゆるでも週5日、一日35時間は最低でも働かなければなりません。

この状況が実はつらく、仕事を引き延ばしてゆっくりやっても十分すぎるほどに間に合う状況がもどかしかったわけです。

 

欧州には友達が多いわけでもなければ一緒に住んでいる家族がいるわけでもありません。

という意味ではヒマを持て余していました。

 

日本時代に夢に見た自由時間を潤沢に手に入れたわけです。

が、プライベートでやりたいことがあっても、それを業務時間中に大っぴらにやることはさすがに難しいです。

 

故に仕事の時間は何もしていない無能感や焦燥感とストレスがたまります。

いろいろ日本に帰った後のことを考えたとしても実際に行動できるのはまだまだ先の為、動き出せないフラストレーションがたまります。

 

別に誰かに怒られているわけではありません。

仕事は安定して回せています。

何か具体的な不利益があるわけでもありません。

 

人生の時間を無駄にしている感覚

 

この時間で必死に努力しないことでちょっとボケてしまうんじゃないかとか弱くなってしまうんじゃないかと思っていました。

 

全く自由な環境に放り込まれたら放り込まれたですべてから解放されたと思うのは間違いでした。

 

でも、それはそうだと思った。

だって、引退したシニア世代たちが全員幸せそうに過ごしているわけではないように。。。

社内失業状態が終身雇用状態であってもメンタルに悪影響を与えるように。

 

シニア鬱や社内失業は昔からある話です。

仕事ばっかりやってきた人が急に引退した後にバイタリティのやり場所を失い、鬱になってしまうとか、社内で何もない時間をひたすら過ごすことで心が無になるといった現象です。

 

だから、何も緊張のない自由を手に入れたからと言って幸せになるとは限らないのです。

 

結局は、自由を手に入れて何をするかなのです。

 

それはお金を手に入れて何をするか。

という問いとも同じです。

 

実は自由になった時にやりたいと思っていたことが実はそんなに強くやりたいというわけではなかったわけです。

ちょっとやったら満足するぐらいのものばかりでした。

 

まぁ、つまり今までのプレッシャーから解放されたいという思いはただの逃げだったわけです。

確かに、プレッシャーをいったん気にしなくていい束の間の休みだけは自由を謳歌している気がしました。

 

が、完全な自由は短くて十分だと思い知らされました。

 

いかにアイスクリームやケーキが好きでも主食に替えてそればっかり食べていられることはないんだなぁなんてしみじみ思います。

 

人によって必要と感じる時間に差はあるでしょう。

ですが、ずっと休んだままでいいということもないようです。

 

「実は自由な時間の使い方を知らない」という怖さ

そのことに気が付かないままに打ち込み続けると急に自分自身の火が消えた後には何もない状況ができてしまいます。

 

完全な自由時間の使い方で人生の大部分が変わるはずなのですが、今はそれをフルに活用できているとはいいがたかったです。

なんとなくキャリアの黄昏時を疑似体験したような時間でした。

 

たまたま、この境地を味わいました。

将来、会社やキャリアに限界が見えた時にも同じことを感じるんじゃないかと思います。

 

そう考えると、そこのお前はこれから引退を迎える父親世代に対策を問いかけたいなぁと思います。

 

趣味を見つけたり、何か社会貢献する使命を見つけたり、あり方は様々ですが、何かしら持って欲しいものです。

より長期的で継続的な自分自身の心を投資する何かを。。。

 

残業もプレッシャーもない世界で、人生には緊張と解放のバランスが必要ということを身をもって体感しました。

強い緊張を伴う時間と緊張をオフの時間。

 

どちらかだけでは人生は破綻してしまうようです。

 

自分自身が自由に時間を使っていいという状況に慣れていなかっただけですが、早く気が付けて良かったと思います。

 

極端な話、No緊張、No Life!のようです。

 

これからしばらくはこんな時間を得ることはないでしょう。

 

ですが、2回目にそのチャンスを得た時はもっとうまく時間を使えるはずだと思います。

 

何よりそんなフワッとした時期に始めたこのブログを書き続ければいつかブログが自分を支えてくれる日が来るんじゃないかと信じています。

 

ほいでは!

【人生】人が人をコストとして認識する悲しい現実とその末路【企業】

社員の価値や実力はお金や給料では測れない

企業運営において、人はコストである。

今日では当然の考えであって、人件費は管理会計における主要費目だ。

 

が、コストであるものの、必要不可欠であり、人の質が企業の質を変える。

だからこそ、人の価値はお金や給料では測れない。

 

人件費をめぐる悲しい現実とその末路の話

 

 

そもそも人件費の変動は即効性の高い費目ではない。

一度雇えば、そう簡単には解雇できない。

一度上げた給料を下げるは非常に大変な労力とリスクを伴う。

 

変動費として扱われるべきものだが、ほとんど固定費として取り扱うべきという見方をすることも多い。

特に年功序列・終身雇用を維持しようと思うと非常に弾力性の低い費目になる。

 

人の生活にとっての食費のようなもの

 

食費は家計における変動費だが、食べないわけにはいかない。

食べないわけにはいかないからお金を払ったり何らかの形で食べるのだが、食べるものによって人の体はできている。

 

食べ物をケチると体は弱っていく。

バランスを間違えると体は弱っていく。

 

不自然なダイエットをすれば筋肉と体力を失う。

不摂生は効果的な食事にならない。

 

いい食事をとることは幸せを作り出す。

そんな会社にとって必要不可欠な「人」の話 

 

ちょっと考えればわかるはずだが、様々な企業が直面している現実であり、労使間交渉等を経て苦労する現実の一端。

 

そこのお前が目にした人の価値を見誤った目を覆う現実

 

あるチームがあった。

そのチームはコストを削ることを考えることが至上命題とされていた。

彼らは上から降りてくる無慈悲で無根拠なコスト削減目標に辟易していた。

 

 極端になりすぎて、異様な状態に陥っていた。

 

もうこれ以上頑張ってもどうにもならない。

みんながそう感じていた。

様々なコストがあるが、とりわけ人件費が問題になった時期があった。

 

 

まぁ外資系企業と言うのはそういうものだ。

本国から見れば日本という一国の末端労働者なんて目に見えないし、気にしたことすらない。

人件費を削れ削れと積極的なプレッシャーをかける。

人は減らせ。無駄な時間を減らせ。などなど

 

担当者は度重なるプレッシャーに追い込まれていた。

その担当者も様々な手を考えるのだが、打てる手は過去に打ってきているし、人に対するコストがそう簡単に下がる時代ではない。

 

だが、上司は言う。

「策を考えるのが君の仕事だろう」

と。

 

 

「とはいっても。。。」だ。

担当者は既に限界を感じており、何も生み出せずにいた。

 

苦し紛れに担当者は社内で会議を開いた。

 

人件費の現状と目標数値との差、今やっていることなどを説明した。

そして、全員でアイデアを出し合おうという形をとった。

 

担当者の上司も当然出席することになるのだが、基本的には部長課長級のみの出席である。

基本的に人件費を巡る話は一般労働者を交えてはしないものだ。

 

管理側だけの会議は実態や労働者目線からかけ離れた議論になりやすい。

 

何をしたら労働者がどう反応するかという点について見えにくい状態のまま会議は進行する。

 

来年に引退する人の分で給料でいくら下がる。

実力のない社員を降格させよう。

残業を厳しく監視しよう。

今までは社員がやっていた仕事を外注しよう。

機械化・システム化・自動化をやろう。

 

 

人件費と聞いて最初に全員が思い浮かべる部分に関しては既に何度も議論されている。

まぁ、よくある議論だ。

 

だが、段々雲行きが怪しくなる。

 

今年はどうせ業績目標行かないから来年は社員の無昇給とボーナスカット分でいくら下がる。

来年はこの人がチームから異動するから補充しなければその分コストが下がる。

社員の昇進を少し引き延ばせばコストが上がらないで済む。

今空席になっているポジションも何とか違う人がカバーできているから補充しないでおこう。

新しく入ってくる人の引継ぎ期間を限界まで短くしよう。

派遣・契約社員はほぼ時給なんだからもっと仕事を出して一秒のヒマもなく働かせよう。

役職定年を作って早めに給料が下がるようにしよう。

新しく入ってくる人はなるべく給料の低い若手を獲ろう。

 

最後の方は悲惨で耳を覆いたくなるような話しか出なかった。

 

とにかく人をコストとしか見ない血も涙もない会議だった。

社員に対して還元するという意識は皆無であり、ただ如何にしてお金を出さないかということを全員が真剣に考えていた。

 

この会議模様を前線で頑張っている人が見たらどう感じるだろうか。

「この企業ヤバいな」って思う。

 

が、誰一人としてこの状態に異を唱える人がいなかった。

会議議題が人件費を削るということに絞られていたこともあり、全員が設定された課題に向かってアイデアを出した。

 

が、誰もそのアイデアがもたらす結末には関心を払わない無責任なものだったともいえる。

それも当然だ。

 

彼らも管理職としてクビが掛かっており、何かしら手を打たなければならないことはわかっている。

が、それが同じ会社の他の人たち、あろうことに部下たちを犠牲にして守ろうとしている。

 

そもそも根拠のない目標設定や無謀なプレッシャーの方が大問題なのだが、学習性の無力感からか目標設定に文句を言っても仕方ないと全員があきらめていた。 

 

そんな一幕だった。

 

労働者の人件費削減の健全性

 

特に日本では簡単ではない。

労働者を解雇するには慎重に事を運ぶ必要がある。

 

これが日本特有かというとそうでもない。諸外国だってそこまで簡単にはいかない国は多い。

が、日本の場合には根強く残る年功序列・終身雇用が特殊性を加える。

 

システムに置き換えて省人化するのはまだいい方だ。

が、投資対効果が見合わない小規模企業もあるし、結局だぶついた人員を抱えても戦力化しないケースもある。

 

結局、実力のない部分や切りやすい部分から着手する。

 

派遣・契約社員・定年が近い社員・実力のない社員

解雇規制をかいくぐって、日本では様々な人件費対策が編み出されている。

 

派遣切り、急な雇止め、早期退職制度、業務委託による外注・自動化、福利厚生の廃止、給与形態の変更

様々な手管によって人件費を削る方法を考え出す。

 

ひどい場合には給料自体が下がる。

 

少ない人数でやらせる割に給料は上げず、ただ酷使する。

すると労働者側は不満を抱きやすい。

 

だが、問題は簡単な仕事がなくなり、全体的に仕事の難易度が上がった中でも給料は変えないという姿勢だ。

 

もちろん、いくら仕事が難しくても会社が稼ぐお金が伴って上がらなければ給料に還元されにくい。

当然だ。

 

それに、削減目標が厳しい場合、人件費を無条件に上げることなんてできない。

もはや人の給料すらコストに見えて、いかに削るかを考えてしまう。

 

上記の会議は完全に事故っている。

自分たちで自分たちの首を絞める方向に嬉々として進んでいる。

 

結局、食べる量を制限したり減らしたりすればあるゾーンを境に体のパフォーマンスにも影響が出る。

 

そして、アイデアのいくつかは実行に移された。

 

何が起こったか。

 

確かにコストは下がった。

目標に完全到達しないまでも、ある程度見栄えする数字になった。

 

が、同時に以下の状況を生み出した。

 

・進めるはずのプロジェクトは一切進行せず、やりかけで止まり、将来得うる利益が見込めなくなった。

・少ない人数で多くの業務をカバーさせるようにしたことで、一つ一つの精度が下がり、成果を取り切れなくなった。

・競合他社・同職種に仕事と報酬のバランスで逆転を許し、転職が流行した。

・残る社員も昇給や昇進の希望を失い、勤務意欲が上がることはなかった。

 

結果的に会社は体力を失った。

 

まるでダイエットをしすぎた人のようにエネルギーがなく、非活動的になった。

 

結局、しばらくこの切り詰めた状態を経た後、限界が来た。  

 

リバウンドである。

 

あまりに切り詰めすぎた結果、最も根幹の基礎業務にも支障をきたすようになった。

プロジェクトや新しい取り組みを置き去りにしてきたことや人が少ない状況での潜在的リスクを看過したツケが回ってきた。

一度ケガをすると治りが遅くなり、ケガ状態が慢性化した体がついに限界を迎えた。

 

 

トラブル対処に追加のお金を支払い、炎上している場所を鎮めるために人を入れた。

結果的に以前よりも多くのお金を支払う体質に変わってしまった。

 

スキルの高い人間が積極的に転職したこともあり、組織としての出力は以前ほどの力にならない。

臨時で入れた人もそう簡単には切れず、結果として人数は増えた。

 

 

人をコストとしての物差しでしか測らなかった結果、もう片方の大事な部分を見逃した。

 

給料や支払うコストは人の価値を表すものではない。

 

会社から返せるものは報酬だが、報酬の多寡で人の価値を測ることはできない。

 

それに人だって会社を値踏みする。

コスト削減ばかり考えていると、値踏みされる側に回ってしまう。

 

人が会社から失うのは報酬と仕事だけだ。

代わりの報酬と仕事は人によってはとても簡単に新しく手に入れることができる。

 

が、会社が失うものはもっと多岐にわたる。

大事なものは大切に抱えておかねばならない。

 

体のようにどんなに冷遇しても一生付き合うというわけにはいかないのだ。

冷遇した部分はいとも簡単に抜けていく。人体と違って自らの意志で。

 

交換も適合も容易なのだ。

 

企業が人件費削減を考える時、報酬分の金額と引き換えに目に見えないものを削っている。

 

ただ、そんなこともわからなくなるまでプレッシャーをかけられた悲しい現実の末路。

人件費に関するリテラシー、日本全体であげていった方がいいんじゃないかと思う。

 

企業側も働く側も。