そこのお前の外資系勤務と与太話ブログ

凡人が行く外資系企業勤務やキャリアの与太話や裏話。緩いのと辛いのまぜまぜ。人見知りやビビりだって人生案外イケるじゃんって思ってもらうための与太話。毎週月曜・水曜・土曜日更新予定

日本人は気にしいだという話

日本人は繊細な国民だと思う。

 

成熟しているともいえるし、神経質すぎるともいえる。

 

これは決して悪いことではない。

細かい部分にもこだわり、周囲に気を遣うことができるからこそだ。

 

なんでそんな話をするかというと非常に何気ないことで感じたことがあったからだ。

 

そこのお前は欧州勤務の中では、とにかく細かいことには寛容だった。

 

数字がある程度ざっくりでも許されたし、資料に編集の粗があっても許された。

 

コミュニケーションでもひたすらにかしこまる必要はなく、テンポよくいくときは堅苦しい前置きや説明なしでフランクに進めた。

 

もちろん、気を使うところは気を遣うのだが、毎回全力で!といったことはなく、いらない場合はいらない。とかなりメリハリが利いていた。

 

会社でも飲み会に参加するしないは本当に自由。

友達に声をかけるのと同じぐらいのノリなのだ。

 

行ったからどうとか行かなかったらどうとかいうことはない。

ただ、多くの場合、行った方が楽しい。

 

彼らは仕事の話はあまりしないし、何より途中退席も後から参加も本当に自由だ。

 

一々上座や下座も気にしないしお酌にも回らない。

だから本当に関係構築およびストレス解消になる。

 

自分の時間も確保しやすい。

―――

 

これはグローバルな環境だからだとは思う。

もう少し国籍が偏っていたり、特定のルールがあったりすれば違うかもしれない。

各国それぞれの接待があるし、欧州の人も全く関心がないわけでは。

だが、グローバルであればあるほど、特にそういった細かい配慮を期待しないという考え方は根底にある。

 

だが、この相手を推し量ることにおいて日本ほど様々な点に細かく聡い民族はないんじゃないかと思うぐらい非常に細かい部分まで気にする。

 

日本時代にケチをつけられた事

 

敬語ができていないと教養を疑う。

漢字に誤字があると失礼に当たる。

箸がちゃんと持てないと育ちを疑う。

人がお酌をしに来た回数で自分の尊敬され度合いを測る。

挨拶に来たかどうかで丁寧度を測る。

上司より先に帰ったら失礼じゃないかと気にする

自分のお金でも上司より高いものを食べたら失礼じゃないかと気にする。

対面で話さないと失礼なんじゃないかと気にする

どこに座るかで人の偉さを気にする。

メールの宛先に順番で偉さや序列を気にする。

字の丁寧さやキレイさで人となりを判断する。

ホッチキスの向きや印鑑の向きにすら決まりごとがある。

 

いちいち上げていたら枚挙にいとまがないが、ざっと思いつくだけでもこんな多くの判断基準に溢れている。

 

そこのお前が経験しただけでこの数だが、正直まだまだたくさんあると思う。

 

とかく日常のこまやかな部分でやたらと一喜一憂したり、相手との関係を判断しようとする。

 

これは案外生きづらい習性だと思った。

 

これらを気にしない人ももちろんいるが、欧州に比べて気にする人の割合が半端じゃなく多い。

 

意味があるかないかよりも失礼か失礼でないか、不快かそうでないかという人と共有するのが難しく、画一的な対策がやりにくい基準に重きを置く。

 

これによって行動が制限されたり、不要に気を付けすぎてしまう場合は結構あるんじゃないかと思う。

 

それに、人のある一部分から他の全部を判断するには無理がある。

 

まぁこういうのを察したり、ツボを押さえるのが上手い人はいいが、毎回そううまくいくものではない。

特に世代の違いによる気にする部分の違いは非常に埋めにくい差がある。

 

日本の場合は大抵年下が折れることで一応の落ち着きを見せるが、ただ折れただけで本質的に良好な関係を築いているかと言われると満点ではない。

 

 

上記に加えて、ビジネスの場面に限定しても歴然の違いがある。

Mr / Mrsなどと堅苦しく呼ぶのはほぼ最初だけ。

自己紹介の時点でNick nameなりFirst nameなりを伝えてそのまま以後その名前で呼び合う。

 

メールの書き出しも最初でこそDearぐらいは使うが、気が付いたらHiになっている。

 

一々肩書を書いたり、様をつけたりなどしない。

 

お疲れ様です。

お世話になっております。

 

これらの丁寧な表現は打つこともあるが、よっぽど普段連絡が少ない人にしか打たない。

普段は打つとしても

I hope you are doing well

とか

How is it going?

程度だ。

 

余計なクッション言葉は打たないし、シンプルに聞きたいことを聞くのが良いとされている。

 

たとえ社外の人であっても、非常に密な付き合いになればほとんどの丁寧な表現は省かれていく。

 

だが、日本ではどうだろうか。

 

(いつも大変)お世話になっております。

などから始め、

 

いろいろと前置きをしっかり説明したうえで本題に入ることが多かった。

 

気が付いたらメールの行数は結構な数になっている。

 

そして、本題に入る。

ここでも相手に不快な思いを与えないように細心の注意を払いながら進める。

 

語尾に気を付けてみたり、差し出がましくならないようにしたり、失礼のない表現にしたり。

 

もはやここまでくると一種の芸術作品のようなメールが出来上がる。

 

それを送信するわけだ。

 

さぁ何分かかっただろうか。

そういうのを気にしない文章と比べると2分から3分ぐらいは余分にかけている。

 

一日10通程度、きちんとしたメールを送ると仮定した場合、それだけで最大30分程度失っている。

週単位で見れば2.5時間、月間で10~12時間。定時換算、約1.5日分の労働時間に相当する。

 

書くだけならまだいい。

 

読むときはどうだろう。

 

送られてきた芸術作品を見る。

 

これはこういう意味だろうか?

相手の意図はどうだろうか?

なんてことを勘ぐっていたら平気でタイムラグで5分ぐらいかかる。

 

それも一日のうち5通でもそういうメールが来るとする場合、同じく月間1.5日分程度失う。

それで合計月間20時間だとすると、1日1時間は“細かい部分への配慮“で失っている可能性がある。

 

もちろん悪いことではないし、これをおろそかにして手痛いしっぺ返しを食らわないための安全策であることはわかる。

 

否定はしない。

 

が、全員気にしすぎではなかろうか。

気にしすぎて安全策に安全策を重ねて様々な手間をかけている。

そして、皆がそれが必要なコストだと思っている。

 

もっと楽でいいってできたらいいなっていつも思う。

実際に進めるには時間はかかるだろうが緩やかに時間短縮を実現できないだろうか。

 

日本文化は日本文化でいいのだが、これって結構今の働き方改革でも時間を短縮できるところだと思う。

 

必ずしも本質的に良いことにつながらない場合は思い切って略していくというのがこれからのマナーになったりしないかな。

 

なんて思うようになった。

 

正直、日本に戻るのが怖い。

 

なぜなら、いろいろ欧州にいるうちに忘れてしまった気がするからだ。。。笑