そこのお前の外資系勤務と与太話ブログ

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耳が痛い話を聞きたい人に伝えたい話

耳が痛い話にまつわるあれこれ

耳が痛い話は聞かなきゃいけないとわかっていても聞くのは嫌だし、時には怖い。

ですが、成長の過程では絶対に必要な物であり、愛のある人のそういう話は後々大きな支えになったりするものだ。

 

が、今日では、耳の痛い話を聞ける機会も少なくなってきた。

というかみんながあえて耳の痛い話をしなくなったというべきか。

 

苦言を呈する役割

 

賛否両論あるが、嫌われ役になることで周りに影響を及ぼすというスタイルも昔は珍しくなかった。

やたらと小うるさい先生もたくさんいたし、近所の大人や少年野球の大人からはゴリゴリと怒られたものである。

 

それはそれで振り返ってみた時には大きな力をくれていることもある。

逆に、こんな大人には絶対ならない!ってのもいたが、とにかく好こうが嫌おうが彼らなりの正義として行動する人は多かった。

 

が、嫌われ役を誇る人種は現在では敬遠対象になっている。

 

コンプライアンス対策・人材の流動性向上による転職の容易化・管理職の評価基準うんぬん。

1対1のコミュニケーションの中に気にしなければならない外部要因が増えた。

 

どうやら、耳の痛い話をする側もめちゃくちゃ気を遣わなければならない時代になったようだ。

管理職受難の時代とはよく言ったものだ。

 

さらに、全体的にほめて伸ばすことが正義という風潮になった。

 

要はネガティブなフィードバックでは人は伸びない、怒鳴るなんてもってのほか。

という話だ。

 

だから、前みたいに否定的なフィードバックがしにくくなったり、拡大解釈して批判は無条件にNGであると認識する人が増えた。

もちろん不用意に人を傷つけるようないい方には大いに問題がある。

耳が痛いだけにとどまらず、心まで痛めてはいいことはない。

 

怒鳴ったり泣いたなどの感情的なコミュニケーションの善悪はここでは論じないが、耳が痛い話の是非については思うところがあるので書いてみたい。

 

耳が痛い話の存在意義

 

さて、この否定的フィードバックをしないことが正義という風潮の令和時代には面白いことに逆の状況が出てきている。

 

若い世代の向上心がある層が誰も厳しいフィードバックをしてくれないから逆にストレスを抱えているという話だ。

 

褒めてはくれるし、優しくしてもらっているけど本当に自分として自信を持っていいのかわからない時があるという構図だそうだ。

 

特に、若手として優しく育てられている中で、戦力として不十分な自覚はあるのに誰もその部分を強く指摘してくれないというところに違和感を抱くというのだ。

 

優しくされるのは期待されてないからなんじゃないか?とかお世辞を言って濁そうとしているんじゃないか?

など逆にソワソワするようだ。

 

悟り世代と揶揄される中で、同時にそういった人も増加しつつあるという話を聞いたことがある。

非常に興味深い。

 

耳が痛い話から遠い環境

 

彼らはゆとり教育と褒める教育の流れに乗って、過去に比べて比較的守られた安全な環境を享受してきた。

そういった環境を批判する大人が多い中で、選択の余地なくその環境において育ってきた。

 

そういった本人ではいかんともしがたい環境に危機感を持ち、自分自身の将来を憂う個人はいくら悟り世代と言えどもいるのだ。

 

ただし、過去の世代と同じではない。

 

新人は怒られるのが仕事で、上の世代が怒ってしつけるのが教育だという認識はしていない。

 

無意味な叱責や説教については彼らは非常に冷酷に判断し、見切りをつける考え方の人は10年前と比べて増えている。

将来的にメリットがない心的ストレスがかかるなら辞めてしまえという考えも同時に持っている。

 

要は心を痛めつけてほしくはないけど、耳が痛い話はしてほしい

 

少しバランス感覚が難しく、なぜか叱る側が叱られる側のニーズをくみ取る必要性が出てきているが、まぁそういう時代だ。

だが、非常に合理的であるべき姿だとそこのお前個人的には思う。

 

耳が痛い話をする方もされる方も相互に気を使い合う姿勢が求められる。

 

自分のことを棚に上げる人はいつの時代も尊敬されない。

 

現代ではそれが年上でも例外でなくなったというだけだ。

 

 

耳が痛い話を聞くのが難しい理由

 

聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。

非常にシンプルで的を射た表現だと思う。

 

わからないことや知らないことは聞いてしまった方がいいわけだ。

それは自発的に尋ねていくだけにとどまらない。人から頂く話でも同じである。

 

耳が痛い話でもそれが正しければ聞いたほうが現実的な利益は取りやすいし、自分では気が付かない刺激を与えてくれることもある。

 

昔から言われているにも関わらず、全員が実行できるとは限らない。

それにはいくつか理由がある。

 

エセ耳が痛い話をする人たちの存在

 

耳が痛い話にかこつけて心まで傷つけてくる人達

ただ人に批判や指摘をしたいだけの人

いい話ぶって意味ないことを連発する人

トゲがあったり、ねちっこかったり、感情を逆なでする言い方をする人 

そもそも話が通じない人

 

これらのバッタモン耳が痛い話は文脈にかかわらず、非常に厄介

 

これらの人から受ける心へのダメージが重なることで話を聞く側は基本的に余計に身構えてしまう。

耳が痛いけど聞かなきゃいけない話なのか単なる時間の無駄なのかわからない場面は出てくる。

 

あまりにそれが繰り返されるとあきらめるようになる。

聞いても意味ないかもな。

とか

適当に合わせとけばいいや。

なんて。

 

要は、耳が痛い話の中に役に立たない点が多く混じっていたり、抱いた違和感に対して公平にその是非を議論できない場合のことだ。

先輩から頭ごなしに「ダメだ!」とか「こーするのが普通だろ!」と言われるとまぁ聞く気も失せていく訳である。

 

昔は怒られに怒られを重ねてパンチドランカーのようになって心理的にマヒするまで心を殴り続けるというのが一般的な対処法だったように思える。

とりあえずキレて、厳しくして先制パンチをくらわす。

こういったスタイルを取る人は令和元年時点で50代以降の人に多い気がする。(そこのお前の個人的感覚)

 

心が痛くなければ耳もいたくない。みたいな論理で、指摘・批判をされ続けることで慣れさせるというやり方だ。

 

こういった困った人間に囲まれると聞く側は混乱する。

聞けばいいのか聞かなくていいのかわからないまま時間が過ぎていく。

 

これには長所と短所があるのだが、この方法は令和時代にはもう過去の遺物である。

 

だからこそ、耳が痛い話とはきちんと区分けしなければならない。

 

耳が痛い話とバッタモンは違うものと思っておいた方がいい。

その違いが判らずに、ネガティブなことを言う相手が全て上記の困った人カテゴリーに属すると先入観を持って社会に出ると苦労する。

 

というのも、耳が痛い話をする側だって完璧はありえない。

 

大なり小なり上記の困った要素を含んでいる場合もあるし、人によっては癖もある。

大筋、きちんと配慮してくれているけれど、たまにキツい言葉を言われるとかたまに意味不明な話が出るとか。

 

そういうことはだれしもあることだ。

しかし、そこに心が狭くなってしまうといざ自分が耳が痛い話をする側に立った時に自分を強く縛ってしまう。

 

それに、早い段階でシャットアウトすると貴重な機会を逃すこともある。

往々にして信頼関係はある程度の時間を経て成り立つものだ。

 

最初に胃がキリキリとしても、愛のあるフォローや苦楽を共にする時間も含めて人間関係の一部であると認識出来る時もある。

心を痛めてくる人のせいで、意味のある耳が痛い話までシャットアウトすることは非常に損である。

 

が、耳の痛い話か心が痛む話かの判断基準はしっかり持っておきたい。

 

1、将来に資する学びや利点を享受できなくなった

2、こちらの話や言い分を受け入れない状態になった

3、心が拒否反応を示した

 

痛いのは耳まで十分であり、自分本体や自分の未来を削るようなものは不要である。

この3点が一つでも当てはまる場合には再考してもいいと思うが、それまでは一度受け入れてみるとよい。

 

耳が痛い話をしにくくなった理由

 

 

さて、そんな耳が痛い話だが、話をする側もかなり気を遣う時代である。

 

むしろ、耳が痛い話を依頼する時代が来ている。

 

この話は特に会社という組織上での話だが、管理職界隈ではセクハラ・パワハラ認定や外部からのクレームを恐れたりする過程で言いにくいことが増えたということもよく聞く。

 

オーナーのワンマン企業だったり、地方の閉鎖性の高い企業では全く違う文化かもしれないが、都心の大企業などではこれが顕著に変化している。

 

特にハラスメント認定の基準や塩梅を巡っては非常に繊細で不明瞭な現実が潜んでいる。

 

それもそのはず。

大いに主観的な部分や簡単には可視化できない要素も含めて判断しなければならないからだ。

画一的なルールを定めるには限度のあるエリアだ。

 

理不尽な振舞いを抑制する効果は確かにあるが、それを意図しない一定の合理性がある部分にもその抑制力が及んでいる。

 

そうでなくても、直接関係ないものには関わらぬが吉であり、トラブル解決に当たっては当事者間だけではなく第三者を交えた場を設けやすくなったし、それが主流になりつつある時代になった。

 

対応の煩雑さや個人的に得られるメリットを考慮しても余計なリスクは負いたくないというのが実際によく聞く話である。

 

実際、そこのお前も感じるところでは、少し変なことをする人は総じて何かを言った時にも素直には従わない。

そういう人に限って、いくら本人のためを思って配慮していても、想定外の牙をむいてくる。

持つ基準や考え方が違えば違うほどもめ事は大事になる。

そんな経験もあって、苦言を呈するのは苦手で、極力避けてしまう。

 

耳が痛い話をしていい物か、触らぬが吉か。

 

これを先に考えてしまう瞬間がないわけでもない。

 

逆に、耳が痛い話NG!とか歓迎です!

 

とか書いてくれれば助かるわーなんて思う。

 

昔の時代のような、上司は上司のありのままで部下が耐えるべきみたいな風潮がないのはいいことだが、かならずしもいいことばかりかというとそうではない。

関係性における常識が崩壊した分、個人個人に対してしっかりと向き合い、構築する必要性が出てきた。

 

つまり、初動の段階で慎重に動かなければならないのである。

すると本質的な耳の痛い話をする前にもっと表面的な接触から手探りで進める形になる。

 

上司側としては無用なリスクは避けたいし、年が離れていればいるほどより気を使っているのだ。

中には最初からぶっちぎってがっつり自分のペースに抵抗なく巻き込める人もいるが、それは簡単にできるものではない。

それができる人は稀有な存在である。

 

だからこそ、今日では耳が痛い話をしてくれる人は希少性を増している宝なのだ。

管理職ひよっこのそこのお前としてはまだまだその領域には到底到達しない。

 

きちんとした信頼を築こうとする試行錯誤は上司側なりの努力であって、それに完璧性を求めるのは虫が良すぎる。

不満をぶちまけたり、陰で愚痴を言うのは簡単だが、それではお互い気持ちよくならない。

 

これでは雨漏りしている屋根の水をバケツで出すだけだ。

対策を打つなら漏れている箇所を修理しなければならない。

 

昔のような上に無条件に従うという文化を排除するのであれば、自分達からも積極的に歩み寄るようにしなければフェアではないし、事実そういうアプローチをとったほうが現実的なメリットは得やすい。

 

部下でも上司でもお互い不用意に踏み込まないことが良しとされる世の中にあって真摯に向き合ってくれる上司や部下程大切な資源はないと思う。

 

自分としても耳が痛い話でも聞いてもらえるような上司でありたいと思うし、部下からの耳が痛い話も含めて互恵的な人間関係を持ちたいと思う。

 

そこのお前も期待する人にはつい期待と同時に厳しい目線で見たくなる時はもちろんある。

 

そんな時に上司に心開くことができる部下がいてくれると幸せである。

 

管理職としてもわがままだと批判が来るかもしれないが、部下が上司に理想像を求めるなら上司が部下に求めたっていいじゃないか。って話。

 

少しそれたが、耳が痛い話を聞きたい人はきちんと人を選んだ上で素直にストレートに伝えることが第一ステップ。

それが上司の警戒心を解かせ、信頼関係を築く一歩になる。

 

耳が痛い話が聞ければ成長は加速する。

 

成長が加速すれば充実した未来を享受する可能性が上がる。