日本人は伝わらないっていう経験をすることがめちゃくちゃ少ないって話
最近、いろいろ思ったことがあります。
欧州での生活を経験して感じたことをメインに書きます。
コミュニケーションのどの部分に力点を置くかについて、日本に戻っても考えなければならない話題ですので、今のうちに書いておきます。
伝わらないっていう経験が少ない日本人
伝わらない。
よくあります。
上司に意見が伝わらない。
上手く言えなくて黙ってしまう。
伝わっていると思ったら違った形で受け取られている。
考えていることと口で言っていることがずれていることは自分でもわかっているけど、うまく伝えられない。
いろいろな場面で人は伝わらないを経験します。
一生付き合う「伝わらない」問題
子供のころは泣いたり、感情をあらわにすることで親をはじめとする大人たちに察してもらいながら伝え方を磨いていきます。
ただ、それだけでは同世代の子たちとうまくやるには不十分なので徐々に言葉による伝達を学びます。
(※大人でもそれができない人はたまにいますが。。。)
この過程では、言葉を通して複雑な内容や細かい部分まで精度高く伝える技術を習得します。
言葉を活用するのは世界共通でも、異なる言語の場合には途端に情報伝達の精度がガクンと落ちます。
また、同じ言語であったとしても文化的な背景や育った環境の違いから全く伝わらないという場面も存在します。
ネイティブのしゃべる英語と英語圏外の人が喋る英語では全く別物になってしまうこともありますし、アメリカとイギリスでも違いはあります。
「伝わらない」は言葉だけでなく、文化的背景や環境的な影響も混在します。
この部分について、欧州での海外生活を経て、とりわけ日本においては「伝わらないという経験」が非常に少ない環境だと強く感じました。
割と多くの人が「それぐらいわかるだろ」の範囲をかなり広めに持っている気がします。
特にお年上の方々はそうです。
それもそのはず。
日本人で日本に生まれて育つ場合、環境的にそこまで大きな差が付きにくいようにできています。
日本は教育水準も高度に画一化されていますし、社会インフラや文化的背景もかなり同一性の高い国だと言われています。
方言もせいぜい沖縄や東北・北海道の奥の方では違いが目立つ程度ですが、完全な別世界ということはありません。
その他にも、外国人や異なる文化背景の人が流入してくる入り口が非常に少ない環境といえます。
教育課程での外国人はまだまだ少ないですし、移民が活発になってきましたが、それでも日本語一強体制です。
徐々に開かれ、オープンになりつつある世界ではありますが、それでもまだまだ単一文化の範囲内を脱しているとは言えません。
更に、もともと不言実行を良しとしていた世界です。
語らずとも語ることを美徳とする文化的背景もあり、必然的に明確なアピールはせず、お互いに察しあうという点に力点が置かれてきたといえます。
阿吽の呼吸や以心伝心など様々な言葉抜きで通じ合っていることを表す表現があるように、同調性や協調性を重んじる国民性や社会的傾向が歴史的に主流でした。
それ故、伝わるはずだ、察するものだという「推し量る」ことの要求レベルは比較的高い水準にあると言えます。
実際、そこのお前もよく大人からは「普通こうだろ!」という常識論やあるべき論をあまり十分に説明されずに語られたものです。
そういう意味では「伝わらない」という苦しみに関する認識は子供よりも大人の方が劣っているかもしれません。
伝わるのが当然だとみんなが思う
いいからやってみろ!とかつべこべいうな!といった抑えつけは子供のころから嫌というほど経験してきました。
何で説明がないんだろう。。。なんて思うことも多かったです。
それは多くの若い世代が疑問に思うところですが、それを圧倒的な力ですり潰すのが日本式でした。
「上の世代は無条件に尊重すべき」が是とされてきた日本社会
この縦社会という年齢に基づくヒエラルキーの序列関係が強力に集団を統治できる仕組みとして機能していました。
そのため、極端な世界では上が言ったことがわからないのは何があっても下の責任という文化でした。
年上世代に配慮することや、自分自身の考えや思考を抑制して組織における感情的調和を図る事が良しとされてきました。
状況と立場に応じて察するべき立場、察してもらえる立場を悟り合うのが日本的コミュニケーションな訳です。
実際、それでうまく物事が回るケースもありますので、絶対的に悪い物とは言い切れません。
が、世界に出た時に短所になりうると痛感しました。
誰が察して、誰が察してくれるかの序列は文化ごとに違うのです。
むしろよりインターナショナルな場ではそんな序列は存在しません。
つまり、全く違うスキルが必要になるのです。
欧州では様々な人が渡ってきて、入り混じって生活をしています。
移民の是非についてはここでは論じませんが、直近の移民の問題が起こる遥か昔から欧州では世界中から人が集まってきていたわけです。
宗教も多様化しますし、言語も多様化されている世界なわけです。
それは欧州内の別の国ということもあればインドやトルコなどの西アジア組、アフリカなど様々なエリアから様々な人種が溶け込んでいます。
何世にもわたって定住しているという人も一定数いるのです。
そんな中にあっては伝わらないことだらけ
もちろん欧州の人たちが完璧に多様性を受容できているかというとそういうことはありません。
彼らも彼らでお互いに相いれない部分を抱えていますし、どっちが上でどっちが下みたいな議論はもちろんあります。
が、子供のころから伝わらにくい、わかり合いにくい人たちと過ごす経験は非常に豊かに積むことができる環境なわけです。
伝わるもんだ。ではなく、普通伝わらないもんだ。に認識が変わります。
伝わらないことが当然という中ではいかにして伝えるかの技術や意識が発達します。
簡単には伝わらない中でどうするか?ということに意識が置かれるようになります。
伝わらない時は伝わるまでとことん主張する。
とか、
相手が何を知らないかわからないからできるだけたくさん説明する。
とか。
伝わらなかった時にどう対処すればいいかを自然と体得します。
伝わらないことでパニックになったりしませんし、相手を殊更に責めたり、省いたりもしません。
こんなこともわからないの?と言い出したら終わりです。
これをヨーロッパでいうと、どんなこと?って平気で聞き返されます。
どうも、わからないやつが悪いというのと同時にわからせないやつが悪いということも結構あるようなので、キチンとはっきり説明主張するわけです。
逆にあいまいにして察するのを待っていると、「いや、言葉にしないとわからないよ!」といって平然と突っぱねられます。
こういう環境で育ってきた人と比べると、最終手段の伝わるまで伝えるというごり押しも含めて、相手に積極的に伝えるエンジンの出力が違います。
これは日本人として育つ過程ではあまり体得しにくい能力だと感じました。
もちろん、不可能なわけではありません。
が、少し意識をして手に入れに行く必要があると言えます。
日本では身に着けにくい伝わらない時の対処法
子供のころから、大人たちが伝わるもんだという認識でコミュニケーションをとってくるので、その人たちのまねをしていては自分も同じ人間に仕上がってしまいます。
年が下であればあるほど相手を察することを求められるわけですが、逆に言えば年を重ねれば重ねるほど相手に察することを要求しまくるようになります。
あまりに長い時間「察して当然、伝わって当然」という中にいると環境の変化に耐えうるサバイバル能力を失います。
また、そういう「伝わる人」としかコミュニケーションをとらないと恐ろしく交友関係の幅が狭まり、非常に閉鎖的な人間になってしまいます。
察することを相手に要求しまくっている裏では自分自身の能力を切り捨てているということです。
無自覚に察することを要求することが結構恐ろしい。
この経験の少なさはこのグローバル社会の発展・浸透の過程でますます致命性を増していると思います。
相手がわかるように、相手の解釈の範囲を狭めて特定するように伝えるという点に日本人は重きを置いてきていないわけです。
むしろ、日本では言わなくてもわかるよね!っていう点に力点を置いている人は結構多いです。
もちろん日本人だけがそうだと断ずるわけではありませんが、割合は多いと思います。
そこのお前の個人的な意見では伝わらない経験の少なさがこの現象を作っていると思っています。
大体わかるだろうという線が非常に広く設定できるのは文化的・言語的同一性の高い状態で基本伝わるという安心できる状態を持っている状態のみです。
特に年齢や位が上がれば上がるほどにこの範囲を広く設定しがち
おそらく、日本でキャリアを積む上ではこれが無自覚に広がり続けることに危機感を持たなければならないと考えています。
若い世代は逆にいろいろと配慮したり考えるものなので、より柔軟でいることができますが、年上世代になって日本社会に特化して柔軟性を失うことは気をつけねばなりません。
逆に、面白いのが、日本人は察する能力が高いので、欧州では逆に珍しがられます。
言ったら確実にわかってくれるし、言った以上のことをやってくれるのはすごくよい。
という評価をもらえます。
リアクションも薄いし、多くはしゃべらないけど伝わっているんだよね。。。と感心されます。
普段、これでもかってぐらいはっきり言わないと伝わらない彼らからすれば、リアクションが薄い日本人はつかみどころがなく見えるけれど、助かるそうです。
これ、実は誉め言葉であり、ちょっとしたダメ出しでもあります。
欧州では控えめさよりももっとずっとアクティブさが求められるんです。
わからせるための努力も、わかったアピールも両方必要なのです。
これは根っこには伝わるだろうという淡い期待や常識の範囲で伝わるだろうという認識をかなり狭い範囲に縮小しているという点にあります。
実際、こちらからコミュニケーションをとるときは言わないと伝わらないですし、言ってもわかっていない時もあります。
分かったかどうかを確認させ、繰り返させたり、適宜確認を入れたりするという手間が必要になります。
結構大きな違いです。
頭ではわかっているんですが、なかなか普段確実に必要なレベルで出来ているかというとそういうわけではありません。
「伝わらない」に対する弱さ日本人が抱えるある種先天的な弱点かも
この弱点をカバーするには「伝わらなかった時にどうするか。」を常に意識し、磨き続けなければなりません。
伝わるもんだと勝手に思い込んで、うまくいかない時にイライラするのはまだまだ次元が低いわけです。
そこのお前もそういうことは多々ありますが、成熟するとともにそういった勝手な思い込みやバイアスをそぎ落としていかねばなりません。
日本人同士でもどんどん多様化していますし、他の世代としゃべるときはそういった配慮が必要になったりするわけです。
同時に、どうか恐れずに主張していく度胸とパワーを身につけたいと願う日々です。
ビビりのそこのお前にとってはそっちの方が大きな課題です。
伝わってほしいという淡い期待をやめて、伝えるんだという積極的な意思を持てるように変わっていくのが肝要です。
伝わらないは悪いことではないって思えるようになること
伝え続ける粘り強さを持つこと
伝わっていないことに過剰な罪悪感を持たないこと
こういう細かい意識変化の積み重ねが必要だと思います。