そこのお前の外資系勤務と与太話ブログ

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【働き方】働き方改革とゆとり教育【謎論理】

最近の議論で気になることがある。

 

長時間労働を“絶対悪”とする論理

 

 

絶対悪=すなわち、他にどんな理由があろうとも悪であるという認識だ。

 

 

労働外部の識者(Or研究者)やコメンテーターは簡単に下記の正論をぶちかましてくる時がある。

労働者を長時間働かせないと経営できない企業は存在すべきではない。

とか

経営者の才覚がないから人は長時間労働する。

なんて言い出す。

 

要は長時間労働は根絶すべきものと言わんばかりの主張。

 

まぁそうかもしれない。

経営者が辣腕で素晴らしいビジネスを展開できれば人は労働に過度に悩まされずに済む。

 

だが、労働時間の文脈のみでここまでの極論を主張できるロジックは不明である。

 

 

ゆとり教育も一部では同じように論じられた。

詰め込み教育は絶対的悪になる時代であると。

今では体罰は絶対禁止だし、詰め込み教育も大部分が否定された。

 

だが、世界は思った通りにはいかなかった。

ゆとり教育を受けた世代はゆとり世代と揶揄され、何にも関係ない変化まで併せてゆとり教育のせいにされ、見下される対象のような風潮が作られた。

 

働き方改革も同じような気がしてならない。 

 

そもそも時間の長短を基準に絶対的な悪を定義するには無理がある。

 

現実に目を向けて長時間労働のリスクとリターンを比較してみる。

 

もちろん、ゼロベースで物事を考えたときには労働時間が短くなれば労働者は自分の時間を労働以外により多く費やすことができるようになる。

が、その副作用としていくつかのことが起こりうる。

 

長時間労働をさせる企業は悪い企業だと仮定して、いついかなる状況も労働者は定められた時間だけ働き、会社状況に関わらず帰るものとする。

するとどうなるだろうか?

 

人や省人化投資を確保できる会社ならばいいだろう。

人を増やせばいいのかもしれない。

お金の力を使ってテクノロジーに頑張らせればいいのかもしれない。

 

だが、もしそれが叶わない場合

増えた人員に支払う給料で会社の業績を圧迫するようになったらどうだろう。

省人化投資をして、十分な回収までにものすごく長い期間がかかり、その間の業績を圧迫したらどうだろう。

 

会社はつぶれる場合が出てくるだろう。

会社がつぶれたときに、もちろん経営者は責任を取らねばならないが、労働者も職を探さなければならない。

 

つまり、新しい職場を探さなければならなくなる。

その間、収入は限定的になり、長時間労働とは違うが非常につらい期間が待っている。

 

それは幸せだろうか。

 

つぶれるまでいかないまでも、競争に負けて成長を逃したり、利益が減ったりして再投資のチャンスを逃す場面は多数出るだろう。

これは利益を後でも得られる場合は後にして構わないが、たった一回のチャンスを逃す場合もあるだろう。

 

この際、労働者は責任を取る必要はないが、巡り巡って労働者への還元が期待できる部分を切り捨てている。

 

これは幸せだろうか。

 

長時間労働しても成果を出して、会社をつなぐ時期があることすらも悪といえるだろうか?

 

非常に疑問である。

反対に高校受験や大学受験は“限られた期間内”に集中して時間を費やして合格を手にする側面を持っている。

そこに定時はなく、必要なことを必要なだけ受験日という期日までにやったかどうか?という判定がなされるだけだ。

 

そこには勉強時間の多寡の議論など存在しない。

むしろ多い方がいいとすら言われる。

同時に限られた期間の取り組みであることからいかに密度を上げるか、効率を上げるかも非常に力を入れて議論されている。

 

勉強よりもビジネスの方が苛烈な世界なはずであるが、それでも長時間労働を絶対悪とみなしたがる状況に疑問符が付く。

 

財力があるものが財力を使ってさらなる財力を手に入れることが非常に合理的なように、体力があるものが体力を使って長時間働き、短期間で他者よりも優れた結果をもたらす事も合理性がある。

 

そして、それが返って人生にとって合理的な場合もある。

 

それを切り捨ててまで悪と認識しなければならないだろうか。 

 

また、たしかに経営者が辣腕で十分に余力ある企業運営ができているならば全員そんなに働かなくても世界は動いていくかもしれない。

だが、現実はそうではない。

 

経営者の手腕にはばらつきがあるし、100戦100勝の経営者はそんじょそこらには存在しない。

つぶれる会社はたくさんあるし、競争過程で差が生まれる。

経営者が優れていても、労働者の質が付いてこなければ実際の結果に結び付かないこともある。

仮に上記に言うような経営者としての資格があるかないかですべての企業が振り分けられるとしたら世界は幸せになるだろうか?

 

事実、長時間労働は経営者の才覚や労働者の質だけが問題ではないのだ。

業界構造上、長時間労働を必要とする場合もあれば、企業の存亡をかけて必死に働いている場合もある。

上記のようなケースでは”労働者全体”ではなく関連する個人にとって長時間労働することが彼らの利益になることからやっている場合も存在する。

 

仮に彼らの言い分が正しかったとして、経営者が全員辣腕になって長時間労働しなくても儲けが出る仕組みを追求したとしよう。

何が起こるだろうか。

 

少ない時間でも成果を最大化させるためにお金にならないものはすべて手抜きをさせるだろう。

お金になる部分は強気にお金を取る仕組みに変え、最終的には消費者に大きなインフレの波が来るだろう。

日本人的な礼儀や筋といった部分は無視しても、少ない労働時間で成果を最大化することを考える。

人に還元するのではなく、人以外の労働を担いうる何かに投資を繰り返し、極力人の介在しない状況を作る。

 

あるいは、単純に規模縮小を行う。

夜にいつでもやっているコンビニは時給が高いし売り上げも低いから閉じてしまおう。

となるかもしれない。

夜間救急は長時間労働を招くし、コストも増える。収益貢献率が低いからやめてしまおう。

という病院も現れるかもしれない。

 

そう、行きつく先は決して消費者や利用者を第一に考えた形にはなるとは限らない。

改革の結果が労働者の利益に資するものにならない可能性も十分に考えうる。

 

今当たり前に享受しているサービスや製品は対価が上がるだろう。

 

これは労働者も含めて人にとって幸せだろうか。

 

長時間労働を絶対悪とするにはあまりにも影に隠れている利益を無視しすぎている気がする。

同時に、時間当たりの成果をより上げるための努力が労働者に突き付けられている。

これは時間を使うよりもはるかに難しい課題である。

 

単純な時間で区切る働き方改革は人を幸せにするのだろうか?

長時間労働を絶対悪とする主張は人を幸せにするだろうか?

 

主張する側はこういった過激な主張をすることで食い扶持を稼いでこともあるだろう。

言いっぱなしでよければ、それはそれで幸せかもしれないが。。。

 

結局のところ、この働き方改革の流れを利用し、労働者個人が不利益を被らない働き方を追求できる雰囲気に乗じて自らの立場を向上することはかまわない。

 

働きたくない人は無理して長時間労働をしなくてもいい。

意図しない企業への粉骨砕身を強制されなくていいと認識していい。

労働者を食いつぶさんとする企業から逃げていいことを理解していい。

 

だが、絶対悪とすることはできない。

長時間働いた方が得な場合は長時間働いてもいい。

 

結局、労働者であっても競争環境にいる以上、激しい競争にはハードワークがつきものである。

特にハードワークを礼賛するような主義の相手と戦う時は。

 

世界は日本だけではない。ハードワークを礼賛する世界の相手もいる。

そこに競り負けても働き方改革は自分たちを救ってくれない。

 

そういったリスクもすべて飲み込むなら構わないが、一律に悪とするには限界がある概念なのである。

 

改めて、自分の労働については自分自身で価値を高め、守っていくことが求められる時代になった。

自分の労働人生を企業には依存できないが、改革後の制度にも依存できないということも理解しなければならない。

日本人は気にしいだという話

日本人は繊細な国民だと思う。

 

成熟しているともいえるし、神経質すぎるともいえる。

 

これは決して悪いことではない。

細かい部分にもこだわり、周囲に気を遣うことができるからこそだ。

 

なんでそんな話をするかというと非常に何気ないことで感じたことがあったからだ。

 

そこのお前は欧州勤務の中では、とにかく細かいことには寛容だった。

 

数字がある程度ざっくりでも許されたし、資料に編集の粗があっても許された。

 

コミュニケーションでもひたすらにかしこまる必要はなく、テンポよくいくときは堅苦しい前置きや説明なしでフランクに進めた。

 

もちろん、気を使うところは気を遣うのだが、毎回全力で!といったことはなく、いらない場合はいらない。とかなりメリハリが利いていた。

 

会社でも飲み会に参加するしないは本当に自由。

友達に声をかけるのと同じぐらいのノリなのだ。

 

行ったからどうとか行かなかったらどうとかいうことはない。

ただ、多くの場合、行った方が楽しい。

 

彼らは仕事の話はあまりしないし、何より途中退席も後から参加も本当に自由だ。

 

一々上座や下座も気にしないしお酌にも回らない。

だから本当に関係構築およびストレス解消になる。

 

自分の時間も確保しやすい。

―――

 

これはグローバルな環境だからだとは思う。

もう少し国籍が偏っていたり、特定のルールがあったりすれば違うかもしれない。

各国それぞれの接待があるし、欧州の人も全く関心がないわけでは。

だが、グローバルであればあるほど、特にそういった細かい配慮を期待しないという考え方は根底にある。

 

だが、この相手を推し量ることにおいて日本ほど様々な点に細かく聡い民族はないんじゃないかと思うぐらい非常に細かい部分まで気にする。

 

日本時代にケチをつけられた事

 

敬語ができていないと教養を疑う。

漢字に誤字があると失礼に当たる。

箸がちゃんと持てないと育ちを疑う。

人がお酌をしに来た回数で自分の尊敬され度合いを測る。

挨拶に来たかどうかで丁寧度を測る。

上司より先に帰ったら失礼じゃないかと気にする

自分のお金でも上司より高いものを食べたら失礼じゃないかと気にする。

対面で話さないと失礼なんじゃないかと気にする

どこに座るかで人の偉さを気にする。

メールの宛先に順番で偉さや序列を気にする。

字の丁寧さやキレイさで人となりを判断する。

ホッチキスの向きや印鑑の向きにすら決まりごとがある。

 

いちいち上げていたら枚挙にいとまがないが、ざっと思いつくだけでもこんな多くの判断基準に溢れている。

 

そこのお前が経験しただけでこの数だが、正直まだまだたくさんあると思う。

 

とかく日常のこまやかな部分でやたらと一喜一憂したり、相手との関係を判断しようとする。

 

これは案外生きづらい習性だと思った。

 

これらを気にしない人ももちろんいるが、欧州に比べて気にする人の割合が半端じゃなく多い。

 

意味があるかないかよりも失礼か失礼でないか、不快かそうでないかという人と共有するのが難しく、画一的な対策がやりにくい基準に重きを置く。

 

これによって行動が制限されたり、不要に気を付けすぎてしまう場合は結構あるんじゃないかと思う。

 

それに、人のある一部分から他の全部を判断するには無理がある。

 

まぁこういうのを察したり、ツボを押さえるのが上手い人はいいが、毎回そううまくいくものではない。

特に世代の違いによる気にする部分の違いは非常に埋めにくい差がある。

 

日本の場合は大抵年下が折れることで一応の落ち着きを見せるが、ただ折れただけで本質的に良好な関係を築いているかと言われると満点ではない。

 

 

上記に加えて、ビジネスの場面に限定しても歴然の違いがある。

Mr / Mrsなどと堅苦しく呼ぶのはほぼ最初だけ。

自己紹介の時点でNick nameなりFirst nameなりを伝えてそのまま以後その名前で呼び合う。

 

メールの書き出しも最初でこそDearぐらいは使うが、気が付いたらHiになっている。

 

一々肩書を書いたり、様をつけたりなどしない。

 

お疲れ様です。

お世話になっております。

 

これらの丁寧な表現は打つこともあるが、よっぽど普段連絡が少ない人にしか打たない。

普段は打つとしても

I hope you are doing well

とか

How is it going?

程度だ。

 

余計なクッション言葉は打たないし、シンプルに聞きたいことを聞くのが良いとされている。

 

たとえ社外の人であっても、非常に密な付き合いになればほとんどの丁寧な表現は省かれていく。

 

だが、日本ではどうだろうか。

 

(いつも大変)お世話になっております。

などから始め、

 

いろいろと前置きをしっかり説明したうえで本題に入ることが多かった。

 

気が付いたらメールの行数は結構な数になっている。

 

そして、本題に入る。

ここでも相手に不快な思いを与えないように細心の注意を払いながら進める。

 

語尾に気を付けてみたり、差し出がましくならないようにしたり、失礼のない表現にしたり。

 

もはやここまでくると一種の芸術作品のようなメールが出来上がる。

 

それを送信するわけだ。

 

さぁ何分かかっただろうか。

そういうのを気にしない文章と比べると2分から3分ぐらいは余分にかけている。

 

一日10通程度、きちんとしたメールを送ると仮定した場合、それだけで最大30分程度失っている。

週単位で見れば2.5時間、月間で10~12時間。定時換算、約1.5日分の労働時間に相当する。

 

書くだけならまだいい。

 

読むときはどうだろう。

 

送られてきた芸術作品を見る。

 

これはこういう意味だろうか?

相手の意図はどうだろうか?

なんてことを勘ぐっていたら平気でタイムラグで5分ぐらいかかる。

 

それも一日のうち5通でもそういうメールが来るとする場合、同じく月間1.5日分程度失う。

それで合計月間20時間だとすると、1日1時間は“細かい部分への配慮“で失っている可能性がある。

 

もちろん悪いことではないし、これをおろそかにして手痛いしっぺ返しを食らわないための安全策であることはわかる。

 

否定はしない。

 

が、全員気にしすぎではなかろうか。

気にしすぎて安全策に安全策を重ねて様々な手間をかけている。

そして、皆がそれが必要なコストだと思っている。

 

もっと楽でいいってできたらいいなっていつも思う。

実際に進めるには時間はかかるだろうが緩やかに時間短縮を実現できないだろうか。

 

日本文化は日本文化でいいのだが、これって結構今の働き方改革でも時間を短縮できるところだと思う。

 

必ずしも本質的に良いことにつながらない場合は思い切って略していくというのがこれからのマナーになったりしないかな。

 

なんて思うようになった。

 

正直、日本に戻るのが怖い。

 

なぜなら、いろいろ欧州にいるうちに忘れてしまった気がするからだ。。。笑

自己啓発本の罠について考えてみた件

 

そこのお前は結構この手の本を読むのが好きです。

(※好きですが、本当に活用できているかは不明←)

 

自分が日々やっていることがこういう本に書いてあったら、問題の答え合わせの結果、合っていたみたいな感じで少し嬉しくなります。

 

同時に、自分がこれから直面するであろう難局に答えが見えていない時に、関連することが書いてあるタイトルを読んでみたくもなりますし、それをもとに思考を広がった感じを得られると開放感を得ることができます。

 

例えばこんなのw

 


 

 

 

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とはいえ、本を読む過程で思ったことがあるんです。

どうしても、人のまねをするには限界があるし、微妙に状況や環境が違うのか、それともそこのお前の意思が超絶弱いのかわかりませんが、きっちり実行に移せる場合ってものすごく少なくないですか?

 

同時に、この手の本ってスタートの着想と結果の掘り下げはしっかりしているけど、どういう環境でどう続けるまたは実行することができたかについての掘り下げができてる本ってものすごく少ない。

 

これがあるかないかで説得力も変わるし、これを自分でできる人は自己啓発本なんていらないんじゃないかと思うわけですが、じゃあ誰のための本なのかということです。

  

もちろん読者のためでもありますが、本である以上自費出版でもない限りは出版社の利益が絡むのでまず前提として著者と出版社のための本なわけです。

 

ただ、そこのお前は見事に養分で、たまに無性に読みたくなって買ってしまいます。

こういう時って、基本いいことありません笑

 

特に以下の2つのシチュエーションで本を買ったときに

 

・何となく充足を得たい、何かわからないけど不安だから安心を得たいとき。

・キャッチコピーやタイトル・著者の肩書にひかれてそのまま半ばジャケ買い

 

この二つの場合はまずお金と時間だけ失います。

 

まあ、考えてもみろ。って話ですよね。

今まで読んできた自己啓発本で完璧に実行できた本が一つでもあっただろうか?

と自分に問うた時に。。。

 

その体験がある人は読むべきと思った本は読み続ければいい。

 

それがない人は現実に気が付いたほうがいい。

あまり実になっていないことを・・・

 

 

とはいえ、そこのお前も何年かに一冊は衝撃を受ける本に出会い、タイムリーさも相まって、本当にいい影響を実際に享受できることもあります。

 

だからやめられないんですが、やっぱりしっくりこない本は全くしっくりきませんし、中には内容の薄いものもたくさん混ざっています。

 

 

でも、ある種仕方ないなって考えることができるようになってきました。事実、自分で書けと言われても結構な制約があるなぁと思ってしまいます。

 

そもそも、なるべくたくさんの人または多く売れないと商売にならないので、より大衆向けにかつプライバシーや企業秘密な部分は隠して、当たり障りなくトゲを丸くしながら書いていくわけです。

 

つまり、もともとの人に対して伝えたいという思いと内容の割合が様々な現実的制約に阻まれて、どんどん本の中での居場所が減らがされ、その神髄を伝えきることができないまま本になってしまったものが多いはずなんです。

 

それでも、欲しいものや情報が明確な時、数を絞ってこの分野で買う本はいったんこれだけ。と決められるときは買おうかと。

 

 

 

20代も終わりに差し掛かってようやく受け入れることができるようになってきたのですが、自己啓発本やその他の学びは食事と同じで、入れられる量には一定の限界がある気がします。

とにかく読み漁ったり、とにかく入れまくってオーバーロードしても非常に効率が悪くて、むしろちゃんと本の通りに変わらない自分にイラついたりするものです。

 

もはやできないことをやろうとしてもしょうがないです。

できそうなことからやっていく前提でインプットしたほうが圧倒的に気持ちよく進めます。

 

自己啓発本を消費型コンテンツとしては扱わず、きちんと己の中で厳選し、きちんと自分自身と付き合いながら、先人たちの学びを取り入れていこうと強く感じた。。。。

 


 

 

ほいじゃ!

【あるある】叱られて育ったと自負する人と褒められて育ったという人、実は同じこと言ってるんじゃね?って話【対管理職】

 

叱られた後、その変化を認識してもらい、そこを褒められるからこそ伸びるのだ。褒めると叱る二項対立ではなく失敗と成功の周囲の反応にすぎない。

最近の褒める教育全盛の時代に違和感を感じると同時に、アルコールが閃きをくれました。

 

とにかくタイトルと見出しの通りだと思った話。

 

ーーーー

 

社会人として若手の駆け出しのころは様々なお付き合いの席で上司や先輩の武勇伝を聞くことがある。

 

だいたい、いつも「おれ、スゲー!」で話が終わるのだが、まぁリピートされない分にはすごく興味深いし、案外含蓄がある。

 

そんな中で、どんなに怒られて育ったと自負した人でも、どんな時が成長を実感した瞬間ですかと聞くと

いつもは厳しい上司が感謝をしてくれた瞬間かな。。。

とか

あんだけ難しかった取引先が心を開いてくれた瞬間だ!

という。

 

その時、どう感じましたか?と聞くと

心の中でガッツポーズをしながら、嫁さんに話して、たっぷりおだててもらったよ~

とか

自分にご褒美買ったわ~

とか

 

そんな心温まる話が返ってくる。

 

その後どうしましたか?ときくと口をそろえて、

感謝をしてくれた行動を繰り返すようにし、もっと高いレベルになるように努力した

という。

 

とりあえず、現状維持に徹した。

 

という人はいなかった。

 

実はこのプロセス、しっかり叱るとほめるが入っている。

 

 

恐怖

これは人の行動を止めることためにある。

 

これら恐怖や罪悪感などネガティブな感情を働かせることで行動をさせないようにするという意味では最適である。

いわゆる初歩的なしつけである。

理屈や利害ではなく感情によって行動を制限する。

 

しかし、どの行動を指しているのかが不明な場合などの恐怖を取り除くことを想像できないとき、その恐怖が暴走し、闘争本能は逃走本能にギアを入れ替える。

そして考えるのを拒否し、理解することを拒否し、結果的に「委縮した」状態に陥る。

 

そして、社会では多くの場合、結果に対して叱責が出る。

 

売り上げが上がらなかった

 

利益が足りなかった

 

目標に到達しなかった

 

誰かを怒らせた

 

犯罪を犯した

 

などなど

 

が、叱責の原因となる行動や結果がわかっていないと叱る行為は叱る側が狙った効果を発揮しない。

要は恐れを抱かせるべき対象を明確化しなければ意味がない。

 

ある意味、パワハラやセクハラもそうである。

結局、認定基準があいまいな部分があり、不明ながらも広範囲に社会的リスクという形で恐怖を作っている。

 

その結果、人は大幅に言動を自主規制し、余分に委縮している部分も発生する。

ミスを指摘できない上司や、異性の部下とのコミュニケーションに過度な恐怖心を持っている上司など。

 

だが、悪い行動がわかっていて、叱られている対象が明確に認識できている場合、それをピンポイントに再発しないようにする。

とはいっても、これは成長するというよりは、マイナスをさらにマイナスにしないための現状維持作業である。

 

もちろん、それでも前よりもマイナス要素が減れば結果としては相対的にプラスに転じることになるので、「伸びる」と表現することはできる。

が、マイナスからゼロにするまたはプラスに転じさせるにはこれでは限界がある。

 

叱ることで恐怖感を与えることは、失敗を定義し、望ましくない結果を理解させることには非常に役に立つが、何を以て成功とするか、望ましい結果とするかを理解させるには適切ではない。

 

つまり、失敗だと理解していて、望ましくない結果であると認識している状況でさらに叱っても効果はないのだ。

悪くなければ叱らない。=>すなわちいいってことだ!

とでもなってみれば、それ以上決して良くなることはない。

ただ怒られない基準を満たすようにその場を凌いで凌いでやるだけである。

 

 

だが、教える側は得てしてそれを繰り返してしまう。

何度叱っても改善しない人は今度はよかったところ、よくなった行動、いい結果がわからないのだ。

またはわかっていたとしても実行できないのだ。

 

安心

今までにできなかったことができることになる、自らの殻を破って進化するという意味での成長には褒めることが重要である。

つまり、成功となる部分を認識させ、望ましい結果を認識させる、ちょっとでも進歩した部分を外から認識してあげるのである。

 

そして、少し変わったことでほめる。

ほめるは恐怖の逆で安心や自己肯定感を促進し、行動を促す効果がある。

ただし、それも叱ると同じで、良き行動をほめねば機能しない。

 

つまり、会社でいえば、会社の業績の結果だけ褒めても個人は成長しない。

個人の成績と個人の行動に対して注目した上で褒めないと個人の成長はない。

 

これは教育論の前線でも指摘されている。

「頭がいいね!」よりも「いい結果を出すために頑張れたね!」を最適であるとする。

 

これは結果と行動の違いを如実に表す。

 

相対評価絶対評価の違いはここにあるのだが、社会に出た場合、どちらがいい悪いではなく、いい使い方と悪い使い方がある。

 

相対評価は何らかの比較可能な指標に基づいて、序列をつけることだが、結果のみで判断することで頑張っても頑張んなくても結果が出ていればそれでいい。とすることで進化をやめる可能性がある。

 

逆に絶対評価は、頑張った分や本人のこれまでと照らしてどこまで頑張ることができたかを見るものだが、そう理想的に行くことは少ない。他の人がもっと頑張っていても今までの自分より良かったからいいか。で終わるケースもありうる。

 

つまり、完璧はありえない。

ので、片方のみでイイということはありえない。

 

同じように叱るも褒めるも同様に思える。

失敗と成功を理解し、実行させるためには両方が重要であり、失敗を成功に転じさせるためには失敗には失敗なりの動機抑制と成功を意識するための前向きな動機生成を必要とする。

特に行動に着目して。

 

冒頭の話なんかでは、俺は叱られて育ったんだ!とか言いながら、最後には褒めが入っている。

ずーっと叱られて、叱られて、一言も褒められないままとんでもなく上達したというケースは残念ながら上司陣からは聞かれなかった。

職人の世界限定なのだろう。

 

それはさておき、多くの場合、行動が変わらないと結果が変わらないのだが、結果だけを変えようとすると行動への着目がおろそかになる。

結果ばかりほめていると、そうでない結果の場合、自己肯定感を下げるし、結果が出なかったことを悪とみなすようになるのだ。

すると、常にどうなるかわからない結果に対しておびえることになる。

 

その不安を糧にして行動し続けるモデルもあるが、一向に幸せは増えない。

 

そういう意味では「年収1000万円の壁」なんてレッテルは呪いそのものである。

本人の努力や本人の人生におけるニーズなんてガン無視で「1000万円!すごい!」っていう世間のなんとなくの感覚でそれっぽいだけの万人に当てはまるとは到底言えないものをベンチマークとしてぶっこんで来るわけだ。

 

そして、年収を褒められる人は年収にこだわるようになる。

すると、どうしても収入を落としたくなかったり、収入がより高い人に対して勝手に劣等感を抱くようになったり、逆の人に自分勝手な優越感を保持するようになる。

結果的に年収という看板を外した時に何も残らなくなり、自分をほめることができなくなる。

 

一方で、いつでも自分の信じる道を行き、真摯に努力することを褒められる人は

その状態である自分に自信を持てるようになる。

時に人にも厳しくなってしまう人もいるが、そういう人は自らの行動もいつでも観察している。そして自分で自分を叱り、褒めてあげることができる。

 

実際、裏を返せば、人に褒められることに依存することも実は結果にこだわっているのである。

極端な例では、褒めて育てられたから褒められないと不安でしょうがない、褒められないことがストレスになる。そんなことが現実に起きているらしい。

 

昔は40で不惑といわれたが、情報に溢れ、変化が速く、一つの正解やゴールが短いこの世界で不惑を迎えられるのはもっと後かもしれない。

また、失敗と成功の定義が変わり、自分が信じる叱りと褒めが機能しないときもあるかもしれない。

ついつい、他者の評価に依存してしまう場合があるかもしれない。

 

 だが、人生はどんな時も自分で自分を叱り、褒められるようにならなければその瑞々しさを失うだろう。

 

そういう意味で、叱られて育った人も褒められた育った人も、重要なのは叱ると褒めるを両立し、成長するプロセスを完結させることなのである。

その途中で完璧なバランス配分ではないことがほどんどだが、極力どちらかに偏らず、失敗を成功に転じさせるための自分なりのプロセスを完結させるために必要な心構えを持たなければならない。

同時に、凝り固まらず、アップデートする柔軟さを持ち続けなければならない。

 

安易な誉め言葉に騙されない芯の強さと理不尽な叱りに折れない心をどちらも鍛えなければならない。

 

叱られた武勇伝を聞き流しながらそう思った。

 

同時に思った。

 

彼らはまだまだ褒めてほしいのだ。

 

叱られたことによる感情負債がまだまだ溜まっているのだ。

 

こんな若造でもいいから褒めてほしいのだ。

 

それがわかるとなんだかホッとしてくる。

 

そんな他愛のない飲み会も好きだ。

 

そこのお前にもいつかそういう武勇伝を垂れ流す側が来るのだろうか。。。