【あるある】叱られて育ったと自負する人と褒められて育ったという人、実は同じこと言ってるんじゃね?って話【対管理職】
叱られた後、その変化を認識してもらい、そこを褒められるからこそ伸びるのだ。褒めると叱る二項対立ではなく失敗と成功の周囲の反応にすぎない。
最近の褒める教育全盛の時代に違和感を感じると同時に、アルコールが閃きをくれました。
とにかくタイトルと見出しの通りだと思った話。
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社会人として若手の駆け出しのころは様々なお付き合いの席で上司や先輩の武勇伝を聞くことがある。
だいたい、いつも「おれ、スゲー!」で話が終わるのだが、まぁリピートされない分にはすごく興味深いし、案外含蓄がある。
そんな中で、どんなに怒られて育ったと自負した人でも、どんな時が成長を実感した瞬間ですかと聞くと
いつもは厳しい上司が感謝をしてくれた瞬間かな。。。
とか
あんだけ難しかった取引先が心を開いてくれた瞬間だ!
という。
その時、どう感じましたか?と聞くと
心の中でガッツポーズをしながら、嫁さんに話して、たっぷりおだててもらったよ~
とか
自分にご褒美買ったわ~
とか
そんな心温まる話が返ってくる。
その後どうしましたか?ときくと口をそろえて、
感謝をしてくれた行動を繰り返すようにし、もっと高いレベルになるように努力した
という。
とりあえず、現状維持に徹した。
という人はいなかった。
実はこのプロセス、しっかり叱るとほめるが入っている。
恐怖
これは人の行動を止めることためにある。
これら恐怖や罪悪感などネガティブな感情を働かせることで行動をさせないようにするという意味では最適である。
いわゆる初歩的なしつけである。
理屈や利害ではなく感情によって行動を制限する。
しかし、どの行動を指しているのかが不明な場合などの恐怖を取り除くことを想像できないとき、その恐怖が暴走し、闘争本能は逃走本能にギアを入れ替える。
そして考えるのを拒否し、理解することを拒否し、結果的に「委縮した」状態に陥る。
そして、社会では多くの場合、結果に対して叱責が出る。
売り上げが上がらなかった
利益が足りなかった
目標に到達しなかった
誰かを怒らせた
犯罪を犯した
などなど
が、叱責の原因となる行動や結果がわかっていないと叱る行為は叱る側が狙った効果を発揮しない。
要は恐れを抱かせるべき対象を明確化しなければ意味がない。
ある意味、パワハラやセクハラもそうである。
結局、認定基準があいまいな部分があり、不明ながらも広範囲に社会的リスクという形で恐怖を作っている。
その結果、人は大幅に言動を自主規制し、余分に委縮している部分も発生する。
ミスを指摘できない上司や、異性の部下とのコミュニケーションに過度な恐怖心を持っている上司など。
だが、悪い行動がわかっていて、叱られている対象が明確に認識できている場合、それをピンポイントに再発しないようにする。
とはいっても、これは成長するというよりは、マイナスをさらにマイナスにしないための現状維持作業である。
もちろん、それでも前よりもマイナス要素が減れば結果としては相対的にプラスに転じることになるので、「伸びる」と表現することはできる。
が、マイナスからゼロにするまたはプラスに転じさせるにはこれでは限界がある。
叱ることで恐怖感を与えることは、失敗を定義し、望ましくない結果を理解させることには非常に役に立つが、何を以て成功とするか、望ましい結果とするかを理解させるには適切ではない。
つまり、失敗だと理解していて、望ましくない結果であると認識している状況でさらに叱っても効果はないのだ。
悪くなければ叱らない。=>すなわちいいってことだ!
とでもなってみれば、それ以上決して良くなることはない。
ただ怒られない基準を満たすようにその場を凌いで凌いでやるだけである。
だが、教える側は得てしてそれを繰り返してしまう。
何度叱っても改善しない人は今度はよかったところ、よくなった行動、いい結果がわからないのだ。
またはわかっていたとしても実行できないのだ。
安心
今までにできなかったことができることになる、自らの殻を破って進化するという意味での成長には褒めることが重要である。
つまり、成功となる部分を認識させ、望ましい結果を認識させる、ちょっとでも進歩した部分を外から認識してあげるのである。
そして、少し変わったことでほめる。
ほめるは恐怖の逆で安心や自己肯定感を促進し、行動を促す効果がある。
ただし、それも叱ると同じで、良き行動をほめねば機能しない。
つまり、会社でいえば、会社の業績の結果だけ褒めても個人は成長しない。
個人の成績と個人の行動に対して注目した上で褒めないと個人の成長はない。
これは教育論の前線でも指摘されている。
「頭がいいね!」よりも「いい結果を出すために頑張れたね!」を最適であるとする。
これは結果と行動の違いを如実に表す。
相対評価と絶対評価の違いはここにあるのだが、社会に出た場合、どちらがいい悪いではなく、いい使い方と悪い使い方がある。
相対評価は何らかの比較可能な指標に基づいて、序列をつけることだが、結果のみで判断することで頑張っても頑張んなくても結果が出ていればそれでいい。とすることで進化をやめる可能性がある。
逆に絶対評価は、頑張った分や本人のこれまでと照らしてどこまで頑張ることができたかを見るものだが、そう理想的に行くことは少ない。他の人がもっと頑張っていても今までの自分より良かったからいいか。で終わるケースもありうる。
つまり、完璧はありえない。
ので、片方のみでイイということはありえない。
同じように叱るも褒めるも同様に思える。
失敗と成功を理解し、実行させるためには両方が重要であり、失敗を成功に転じさせるためには失敗には失敗なりの動機抑制と成功を意識するための前向きな動機生成を必要とする。
特に行動に着目して。
冒頭の話なんかでは、俺は叱られて育ったんだ!とか言いながら、最後には褒めが入っている。
ずーっと叱られて、叱られて、一言も褒められないままとんでもなく上達したというケースは残念ながら上司陣からは聞かれなかった。
職人の世界限定なのだろう。
それはさておき、多くの場合、行動が変わらないと結果が変わらないのだが、結果だけを変えようとすると行動への着目がおろそかになる。
結果ばかりほめていると、そうでない結果の場合、自己肯定感を下げるし、結果が出なかったことを悪とみなすようになるのだ。
すると、常にどうなるかわからない結果に対しておびえることになる。
その不安を糧にして行動し続けるモデルもあるが、一向に幸せは増えない。
そういう意味では「年収1000万円の壁」なんてレッテルは呪いそのものである。
本人の努力や本人の人生におけるニーズなんてガン無視で「1000万円!すごい!」っていう世間のなんとなくの感覚でそれっぽいだけの万人に当てはまるとは到底言えないものをベンチマークとしてぶっこんで来るわけだ。
そして、年収を褒められる人は年収にこだわるようになる。
すると、どうしても収入を落としたくなかったり、収入がより高い人に対して勝手に劣等感を抱くようになったり、逆の人に自分勝手な優越感を保持するようになる。
結果的に年収という看板を外した時に何も残らなくなり、自分をほめることができなくなる。
一方で、いつでも自分の信じる道を行き、真摯に努力することを褒められる人は
その状態である自分に自信を持てるようになる。
時に人にも厳しくなってしまう人もいるが、そういう人は自らの行動もいつでも観察している。そして自分で自分を叱り、褒めてあげることができる。
実際、裏を返せば、人に褒められることに依存することも実は結果にこだわっているのである。
極端な例では、褒めて育てられたから褒められないと不安でしょうがない、褒められないことがストレスになる。そんなことが現実に起きているらしい。
昔は40で不惑といわれたが、情報に溢れ、変化が速く、一つの正解やゴールが短いこの世界で不惑を迎えられるのはもっと後かもしれない。
また、失敗と成功の定義が変わり、自分が信じる叱りと褒めが機能しないときもあるかもしれない。
ついつい、他者の評価に依存してしまう場合があるかもしれない。
だが、人生はどんな時も自分で自分を叱り、褒められるようにならなければその瑞々しさを失うだろう。
そういう意味で、叱られて育った人も褒められた育った人も、重要なのは叱ると褒めるを両立し、成長するプロセスを完結させることなのである。
その途中で完璧なバランス配分ではないことがほどんどだが、極力どちらかに偏らず、失敗を成功に転じさせるための自分なりのプロセスを完結させるために必要な心構えを持たなければならない。
同時に、凝り固まらず、アップデートする柔軟さを持ち続けなければならない。
安易な誉め言葉に騙されない芯の強さと理不尽な叱りに折れない心をどちらも鍛えなければならない。
叱られた武勇伝を聞き流しながらそう思った。
同時に思った。
彼らはまだまだ褒めてほしいのだ。
叱られたことによる感情負債がまだまだ溜まっているのだ。
こんな若造でもいいから褒めてほしいのだ。
それがわかるとなんだかホッとしてくる。
そんな他愛のない飲み会も好きだ。
そこのお前にもいつかそういう武勇伝を垂れ流す側が来るのだろうか。。。