そこのお前の外資系勤務と与太話ブログ

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健全な自信を持つということ

最近、自己肯定感という言葉が躍っている。

この言葉をあらゆるところで聞くようになったのは逃げるは恥だが役に立つ以来だろうか。

元は漫画だが、ドラマの影響おそるべしである。

 


 

 

様々な場面で頻出単語になって、より多くの人が認知するところとなった。

そこのお前もすごく好きな言葉だし、多くの人にとって必要な感覚であることは間違いないと思う。

最近はほめて伸ばす教育が隆盛だが、それと同じものだと思う。

 

ただし、これを無制約にいかなる時でも持たなければならない感覚であるとするには無理がある。

が、身の回りにはこの言葉の持つ魔力に縛られて、中毒になりかけている人が存在する。 

自己肯定感をきちんと理解してなかった人の末路

知り合いにこんな人がいた。

 

その人は自分に自信があった。少なくとも入社前までは。

自分が比較的優れている状態であれる環境にいたため、絶対的な優位と混同していた。

彼の出た大学からは彼が史上初めてその会社への門を叩き、周囲からも尊敬の目線を集めた。

 

家柄も非常によく、育ちもいいため、大切に大切に傷つけられないように育てられた。

だが、入社後、社会人の先輩方、ベテラン勢、上司と比べて自分に高い壁を実感し、思い通りにいかない日々が続いた。

 

彼は腐った。まだ1年目だったが、腐った。

彼はもがいていた。なかなか思うように結果が出ない状況で彼は彼の持つ自信がへし折られてしまった。

 

だが、どこで聞いたのだろうか。

自己肯定感の欠落が著しいことに問題があると認識したようで、自分はほめて伸びるタイプであると周囲に強調するようになった。

 

だが、褒めるところといってもかなり限られているし、ここを改善したらいい!というフィードバックだとかここが問題だから修正してほしいといった要望にも素直に従えない状況の中、「指摘や叱るのは逆効果です。いいところを教えてください。これ以上自信を無くしたくないです。」と突っぱねるようになった。

 

言いたいことはわからないでもないが、それを聞かされる指導側や上司はたまったものではない。当然反感を買うこととなった。

 

結果的に、彼は目が出ることなく、やめてしまった。

 

彼はきっとどこかで自分の中でのぼろぼろにされた自己肯定感をつなぎとめる方法を探し続けるだろう。

どういうわけか自己肯定を勘違いし、周囲に自分を肯定させるように変わってしまったが。。。

 

強い自己肯定感と健全な自信とは?

 

この自己肯定感にはいくつか種類があると思う。

便宜上、下記の定義で分類するが、主にこの4種類がもっともポピュラーな自己肯定構図だろう。

 

 

1、他人の評価が違ったとしても、自分自身の考えや行動、能力に自信または誇りをもっている積極的自己肯定

2、諦めに近いが、今の自分でよいと自分で自分に課した要求を取り外し、現実を受容する消極的肯定

3、他人の評価や競争において、相対的に良い位置にいることで得られる優等感による相対的自己肯定

4、誰かから必要とされている時、または自分が他人にとって意味があると実感できる時に生まれる受動的自己肯定

 

他にも種類はあるが、ひとまずはこの4種類からスタートする。

このうち、1と2は自分で自分を肯定することである。

3と4は他人または環境が左右する他人から“与えられる”自己肯定感である。

 

1は時に暴走するが、自分自身に対して積極的な肯定をする最も強度が高い自己肯定だ。

 

2は今の自分を許す「まぁいいか精神」。妥協と呼ばれたりもするが、過度に自分を追い込まないための防衛機制の働きの一つである。現実と理想の乖離が激しい時に必要な物だ。

 

3,は何らかの比較可能な指標において優勢であることが条件となる条件付き自己肯定であり、いつでも自己否定に陥る可能性がある。

 

4,は自分の存在を他者に求める最も強度が低い自己肯定感といえる。自分を大切にするというよりは相手に求めてもらうという自己消失に近いものだ。

 

様々な自己肯定が混ざり合いながら、満たされない想いと理想と現実の乖離による苦悩から更なる自己肯定を求める。

 

だが、今、世の中の大半の人が自己肯定感という5文字しか認識せず、ただやみくもに肯定感を生み出そうとする。

そもそもこの自己肯定感だが、無限の絶対的自己肯定は現代にはほぼ存在しない。

 

昔の王様や皇帝などはそれに近いものがあったが、現代においては数的には絶滅寸前である。 

つまり、非常に流動的で永続性もない感覚であり、VUCAでネットによる世界中との比較で上には上がいて、世の中に代わりがなんぼでもいることをいやという思い知らされながら生きる中で、希少性が高まっていることは間違いない。

 

さて、この知り合いの場合はどうだっただろうか、自分で自分を肯定していたころから、いつしか、自分で肯定できる部分がなくなった。

同時に、諦めてもいなかったから2番の消極的肯定も避けた。

いい心がけだが、その後がもうなかった。

結果的に、彼は他人が自己肯定感を尊重するように要求するという手段に出た。

 

これは、このほど教育のトレンドの変化やパワハラの浸透とも相まって、非常にデリケートな話題となっている。

自己肯定感を育てるために褒めなければならないとか、自己肯定感を持たなければならないから無理に自分を肯定しようとか。

SNSでの偽の自分を演出したりするなど、ある意味自分に嘘をついて自分自身をだましている瞬間すらもある。

 

だが、本質的に生きる上で重要なのは他人や会社から与えられる自己肯定感ではない。

なぜなら、会社や他人は無条件に欲しい内容で肯定を与えてくれるものではないからだ。

必ず、何かの条件と方向性がある。

 

だが、自分で自分を肯定するという技術によってもこの自己肯定感という代物を獲得できる。

この場合、ちょっとやそっとの逆境では失われない自己肯定感を醸成することができる。

つまり、強い心を持ちたければ、自分で自分を肯定する技術を身につけたほうがよいということだ。

 

実は、褒めることばかりで育てられると、この自力で自己肯定する技術を習得することが難しくなる。

叱られたり、劣等感を感じる機会を極端に制限された環境で、自分で自分を肯定するという経験が少なければ少ないほど苦しい状況を跳ねのけるバイタリティの元になる自己肯定感と自信を自分の中で守ることができなくなる。

 

ずっと負け続けた相手についに勝った。

ずっと短所と思い込んでいた部分を生かして長所とする戦い方を編み出した。

とても苦しい状況で、周囲も諦める中、最後まで自分を信じ、最後に成功をつかんだ。

自分がやりたいと思ったこと、始めたことを限界を超えてやり抜き、人生の糧とする。

 

上記はわかりやすい極端な例だがこういったゼロやマイナスのスタートから積み上げてプラスに転じる経験を積み上げなければ自己肯定感を自分で獲得することは難しい。

すると、人や環境から与えられた肯定を自分で生み出したものだと勘違いし続けてしまう。

 

今、変化が早く、常に進化を求められ、陳腐化や機械化などの時代の波に対応して戦うには、他人から与えられる自己肯定感の賞味期限は恐ろしく短く、少ない。

だから、自分自身で自分を肯定していく技術がなければならない。

 

過去に自信を持てなかった領域を少しでも改善し、今まで手に入らなかったモノを手に入れ、自信を持てるようになった成功体験を持とうとすること。

そして、他者との不要な比較はせず、日々、努力し、進化している自分がいると認識すること。

 

自分ができること。

自分ができないこと。

 

これらを見極め、素直に受け入れ、直視して必要であれば乗り越えるために努力できる自分であると言い切れること。

把握するように努め、成功への道筋をたどっていくことができると信じること。

 

そして、いま直面している壁も乗り越えられるまで努力できるはずだと強がりなしに信じることができること。

これが持つべき健全な自信のはずだ。

そして、その道筋に乗っていることを確かめながら、自分を認め・鼓舞することが自己肯定感のはずだ。

 

先の知り合いにはそれができなかった。自分ができないということを認められなかった。

他人から与えられる自己肯定感にこだわるあまり、明確で論理的な指摘を受け止めることができなかった。

それは彼の自信のなさの表れであり、そこから目を背けることで自己肯定感を得るための唯一の方法を失った。

 

結局、地道に努力を積み重ね、昨日よりも今日。今日よりも明日。明日よりも明後日。

これを積み重ねることでしか強い自信を持つことはできない。

 

そして、その積み重ねでしか自己肯定感を獲得する方法はない。

 

他人から無理やり与えられる自己肯定感などただの養殖物である。

継続は力なりとはそういうことである。

 

だが、現実は難しい。

そう簡単に自信を持たせてくれないものである。

上手くなったと思ったらまた元に戻っていたりする。

少しできるようになったとしても、できないときもあれば、ミスをすることもある。

 

ちょっと自信があったエリアから見知らぬ環境に一歩を踏み出すことは非常にビビることである。

まるで、寒空の下で家からきて来たコートを脱ぐように。自分を包んでくれる温かい衣がなくなる。

 

その状況で一から自己肯定感を育てるには忍耐を必要とする。

その状況でも、安易に自己肯定感を手に入れる方法が必ずしも正しいとは限らない。

 

暖かいところからよりも寒いところから暖かいところに来たほうが一層温かさのありがたみを感じるのと同様で、苦しんだ期間や粘る期間も同じく重要な過程の一部なのである。

 

同時に、自己肯定感もどういう部分を肯定したいかを自分で識別しなければならない。

 

なりたい自分になった自分を肯定しなければ意味がない。

 

妥協した自己肯定感は長続きしない。

 

妥協の先には次の妥協が待っている。

 

だがら、ただ苦しい状況から目を背けたいことを肯定する安易な方法に惑わされてはいけない。

自信を持つことをより意味のある財産と感じるためにも安易に手に入れる方法で満たすのは本来の効果を失わせる。

 

それは歩みを止めることだから。

 

進化を止め、低いレベルの自己肯定感を求めてさまようだけだから。

 

時には逃げることも重要だが、自分に対してウソをつく逃げ方をしてはいけない。

 

本来はそういったことも併せて教えられるべき概念であると思う。

 

だって、自信を持つことはそう簡単なことではないのだから。