【働き方】人生の動機付けを外部に要求する思考の不健全性の話【モチベーション】
「お金のために仕事をするな」と言われる。
確かにその通りかもしれない。
が、そう言われても、
お金をもらえない仕事じゃ食っていけないじゃないか!
という話になる。
サラリーマン・フリーランス・芸術・スポーツあらゆる領域で、お金が得られなければ生活できないし、継続できない。
社会的継続可能性の制約があるのは間違いない。
正当な対価を払わないやりがい搾取の文脈かもしれない。
だから、報酬のための仕事は最も一般的であり、悪いことではない。
そもそも「お金のための仕事をするな」という言葉をもう少し考えてみる。
真逆にすると「お金以外のために仕事をしろ」と置き換えられる。
やりがい
社会貢献
楽しさ
家族のため
社会的な接点を確保するため?
いろいろな答えが挙がるだろう。
事実、お金のためだけに24時間全てを捧げられる人はそう多くはない。
仕事に限って言えば、個人の動機を左右しうるのは下記の4種類と言える。
1、会社・所属する社会の目的・地位
2、業務内容及び報酬・評価
3、上司・部下・同僚
4、自分
このうち、「自分」以外からもたらされる動機は全て外部報酬である。
お金・他者承認・社会的ステータスなどなど
正直、外部報酬の動機を生み出す力はバカにできない。
報酬の多寡を気にすることは普通であり、時には自分自身を削ってでも報酬を得ようとする場合もある。
そこのお前も報酬に強く執着した時期がある。
残業代のために仕事を積み増したり、会社からの評価を気にしてばかりいる時期があった。
若くて生活基盤が安定せず、必要な貯蓄・収入状況に満たない事情もあったわけだが、いかに会社から多く報酬を得ようかとお金を得るための手段と化していた。
だが、4の自分以外は動機付けは簡単に個人を裏切る。
会社や仕事は永遠ではないし、必要とされる仕事や報酬の程度はいつの時代も変わる。
周囲の人間だって異動や転職で入れ変わる。
お金のための仕事という非常にシンプルな構図
一般的に見て、報酬を出す側も受ける側も金銭報酬は定量化可能で汎用性があり、最も簡単で互恵的な体系だ。
これをやったらいくらになる。あれをやったらいくらになる。
非常に予測が立てやすく、時々で調整しやすい。
人の行動を律することを考える上でも非常に柔軟で効率的な仕組みである。
故に、今の世の中に存在する企業の多くは基本的にはお金という外在的な報酬に頼った動機付けを基本としている。
なぜなら、お金がなければ積み重ねるPCへのキーパンチでは腹は満たされないし、家族も養えない。
プレッシャーや苦痛も伴うので人の好き嫌いだけに任せたら不安定である。
が、金銭が発生する仕組みにすると、人の行動選択を変えることができる。
多少嫌な仕事でも、お金がもらえるならやる。
とか
好きな仕事もあるけど、嫌いな仕事も混ざっている。だけど、お金をもらうには両方やるしかない。
など。
報酬が高ければ、人は好きではない行動でも実行する確率が上がる。
「お金をもらっているプロなんだから!」
なんて文句はこの考え方が派生して生まれた言質といえる。
こう考えられるほどに、外部報酬は人の意思に反する行動であっても選択を変えることができるのだ。
だから、会社で仕事をする限り、外部報酬に動機を形成される環境から逃れることはできない。
だが、外部報酬の多寡に行動選択基準を依存する状態は健全だろうか。
実は、外部報酬による動機付けは見落としがちな欠点を抱えている。
外部報酬に依存した状態での個人の行動選択は
「報酬がもらえるならやるけど、もらえないならやらない。」
となる。
これも「お金をもらっているプロなんだから」と同じロジックであり、反対の事を表現しているものだ。
外発的動機と内発的動機
実際には外部報酬に基づく外発的動機付けとは逆の内発的動機というものも存在する。
例えば
ラーメンが食べたいからラーメンを食べる。
とか
ディズニーランドに行きたいから行く。
要は「好きだからやる」という単純なものだ。
時に人はお金を払ってまでしたいことをする。
アイドルに投資する人なんかはある種そういう部分が強いかもしれない。
アイドルが育っていくのを見るのが楽しい!って嬉々として入れ込む。
何か見返りの約束があるわけでもなければ、そのアイドルも芽が出ずに消えるかもしれない。
だが、それでも何らかの幸福感を得ることができるからやるのだ。
この内発的動機も確かに人の行動を形作る。
食欲・睡眠欲なども同じで、原始的で誰にも触れられない自分だけの動機だ。
食事は食べること自体が幸せであって、それ以上の幸福はないのだ。
好きなことには時間も結果もコストも忘れて没頭する現象はこの内発的動機から生まれる。
この動機だけは冒頭のその他3つと違って絶対に自分を裏切らない。
ただ、その一方で趣味を仕事にすることはお勧めしない。という言葉も存在する。
好きなことは仕事にするな。
お金のために仕事するなといったかと思えば好きな事も仕事にするなという。
あー言えばこーいう。
世の中には矛盾する格言が数多く存在するものだ。
この言葉は多くの場合、好きなことを仕事にすると幸せではなくなるぞという忠告だ。
世の中そんなに甘くないぞ
とか
仕事をナメるな
とかいった批判めいた忠告や、実際に仕事にしてみると雑務が多すぎて好きなことに割ける時間が少なくてダメだったという経験談もある。
これを心理学的な理論から説明してみる。
心理学にアンダーマイニング効果という効果がある。
簡潔に説明すると、
あるゲームを2つのグループがプレイする。
1、クリアする度に報酬を得るグループ
2、報酬は特にない。
この2グループはプレイ時間(ゲームをプレイする)と休憩時間(ゲームをプレイし続けてもよいし、何をしてもよい)のセットを3サイクルこなす。
ただし、報酬を得るグループは第2サイクルのプレイ時間には報酬を得られるとする。
この条件下で最もプレイの人×時間が落ちたのはどこのグループのどのサイクルだっただろうか。
報酬が得るグループの第2サイクルの休憩時間
なのだ。
報酬のないグループは休憩時間でもゲームに没頭する人×時間に大きな変化はなかった。
が、報酬を得るグループは報酬が発生した後には報酬発生時間以外ではプレイをやめる人が増えた。
アンダーマイニング理論の示唆
この最も重要な点は、
最初は単純に好きだからやっていたものでも、お金や人気などの外部報酬によって外発的動機を与えられた瞬間に内発的動機が抑制されることがある
ということである。
それだけではない。
罰及び脅迫、監視や締切設定、強制的目標設定、否定的評価、命令や競争も内発的動機を抑制する要因になるとされている。
実は好きなことを仕事にする場合は特にこの現象への注意が必要である。
外部報酬を得たり、他人に介入されることで、自己決定感覚を失ったり、報酬がない欠乏感を感じて好きなことに自発性ややりがいを失う可能性があるという事だ。
内発的動機から外発的動機への転換
好きなことを仕事とすると、上記の要因に基づき、動機の源泉転換が起こりやすい。
仕事化すると自分のためにやっていた事も何か他のためにやることになるからだ。
つまり、報酬を得るという動機付けが加わり、取って代わろうとする。
内発的動機が外発的動機に切り替わると何が起きるか。
自らの行動や動機がすべて外側の社会に支配されるようになる。
言わずもがな、普通のサラリーマンの仕事もである。
もともと好きかどうかもわからないことを仕事にする人もいるのだから、特に外発的動機に頼る割合が増える。
仮に外発的動機に頼った行動選択のみになると外部報酬のない行動への意欲が著しく減退する。
最悪の場合は人生の行動全てが外部報酬の有無に依存することになる。
こうして、無意識の間にお金や評価・名声などの外部的報酬に依存する人間に変化する。
キラキラがギラギラに
動機を外部報酬に依存するとその人の純粋な好きという心を蝕む。
新社会人が誰しも抱く「頑張ろう!」、「社会のためになろう!」といった煌めく純粋なモチベーションは塗りつぶされ、給料や評価など外発的動機を生み出す外部報酬の有無に行動を左右されるようになる。
条件付き好きという一段階下がった状態。
仮に好きな事を仕事にするならば、意識的に自分を制御するか、そんな制御なんかいらないぐらい好きな事のみに限るという工夫はいるだろう。
そうでなくては外部から得られる報酬に自分自身の好きを歪められてしまう。
つまり、自分の動機付けを外部や他者に要求するようになり、獲物を狩るようなギラついた目線で世界を見るようになる。
報酬や承認という外発的動機付けを求めて蠢く他律的な人間になる。
「お金を稼ぐ」という行為が楽しい人はそれをやればいい。
稼げても稼げなくても、「稼ぐ」ために行動する自分に湧き上がる幸福感があればいい。
だが、稼げないならやめるという考えは「お金を稼ぐのが楽しい人」ではない。
稼ぎという報酬の多寡に動機の多寡が比例し、外部要因に依存している。
この外部報酬には欲求の天井がなく、同時に際限なく得るには限界がある。
それどころか、依存している場合は報酬がなくなるまたは失うことに恐怖感すら感じるようになる。
金銭的報酬などの外部報酬に自分自身の動機や欲求を満たすことを要求し続けることだけでは決して幸せにはたどり着かないのである。
これは「ある程度の年収レベルに到達した後では幸福度が増えにくいこと」と無関係ではない。
幸福度が比例しなくなる年収レベルの額は調査によってバラつきはあるが、それでも外部報酬で人の幸福感を高めるには一定の限界があることが読み取れる。
つまり、外部報酬の多寡は個人の幸福感に対して部分的な貢献に留まるのだ。
ここで同時に考えるべきは
自分の動機を自分で作る。
この技術だ。
まずは自身の幸福や行動選択を外部環境に支配されていないかを意識的に確かめることだ。
そうでなければ知らない間に外部報酬の底無し沼に沈む。
自分の動機や行動選択が何によって影響されるかを意識し、把握すること。
これを無視して外部報酬による動機付けを他者に要求し続けることは自分自身の幸福に対する主導権を放棄することだ。
世界に支配されてしまう事と同じといえる。
外部報酬に左右されにくい動機を自分で用意できれば自分の行動選択に主導権を握れる。
逆に幸福感や充実感を付与することを誰かに要求し続けることは、食べ物をくれと泣く赤ちゃんと大差ない。
そこのお前も海外生活を経て、大きく自分の行動選択原理を意識的に振り返る機会を得た。
その結果、自分が無意識のうちに外発的動機の誘惑に取り込まれていたことが分かった。
それを自覚してからは外部報酬に依存しない自分自身の内発的動機を育てる時間の貴重さとその解放感を噛み締めるようになった。
そして、自分の書きたいことをひたすら書こうと思ってこのブログを始めた。
このブログで自分自身の内発的動機を作り出す技術を醸成しようと思った。
副業として収入に代わって欲しいという気持ちはもちろんある。
書くブログを誰かから認めて欲しいという気持ちもある。
でもお金や承認欲求という外発的動機に飲み込まれ、依存した瞬間、世界は灰色になる。
だから、このブログも書くのが楽しいから書くという動機を第一にすることを忘れずに書き続けようと思った。
それにせっかく人生で最も多くの時間を使うならば、本業の仕事にも自分の想いを乗せられる意義や価値を見つけ、会社の要求を超えて取り組む動機を意識的に作りたい。
これは会社や仕事、他人が自分に保証するものではない。
もちろん報酬も結果的に得ることができればなおよいが、それが最優先目的ではない状態を確保したい。
動機を自分で作り出すことができると認識出来た瞬間から自由を得る。
そこのお前の場合は外部報酬の塊である仕事においても内発的動機が欲しい。
が、この技術自体は家族のためでも、社会のためでも、趣味の世界でも何でも可能なのだ。
自分自身で価値や意義を見出し、自分を動機付ける技術がこれを可能にする。
外部報酬に依存する心を解き放ち、幸福感をもたらしうる。
逆に人生における動機づけを外部に要求し、依存する思考は不健全な現実を招く。
ギラギラと外部報酬に飢えた人生にならないためにも、そう意識すべきだと思った。
それが大人の生き方だと思った。