そこのお前の外資系勤務と与太話ブログ

凡人が行く外資系企業勤務やキャリアの与太話や裏話。緩いのと辛いのまぜまぜ。人見知りやビビりだって人生案外イケるじゃんって思ってもらうための与太話。毎週月曜・水曜・土曜日更新予定

【就活】親に大反対された外資系内定受諾の話【キャリア】

就活の果てに、外資系製造業を選択

そこのお前のこの選択について周囲からは異様なほど疑問を食らいました。

 

まだまだ人生の道半ばですが、この選択が現時点では最も自分に向いている選択だったと思っています。

 

少なくとも個人的には当時想定したどんな未来よりもよかったと自分なりに納得できる状態を辿る事ができています。

 

もし違う企業に入社したら。。。

 

などとたらればの話をせずとも、今が一番充実!またはこれからもどんどん良くなっていくはずだ!と自分自身をある程度信用できるぐらいには前向きになれています。

 

自分の道は自分で決めてよかったと思っていますが、そうなるまでの過程を、今振り返っての感想と考察も交えて書いていきます。

早い段階で就活を切り上げたので、あまり多くの選択肢から選んでいませんが、総合商社と公的機関、外資系企業の中から最後は外資系企業を選択しました。

 

その時点での比較を簡単に整理

総合商社

収入=◎

ネームバリュー=◎

仕事内容=〇(?)

外資系企業

収入=〇

ネームバリュー=〇

仕事内容=◎

公的機関

収入=△

ネームバリュー=〇

仕事内容=〇

 

普通の人の尺度を用いて判断するとこんな感じになりました。

食らった疑問の9割方が「なぜ総合商社に行かないのか。」についてでしたが、それはそこのお前にとっては非常に明確でした。

 

確かに、上記の要素のみで整理すると商社を選ばない理由があまりにも薄すぎます。

ここで、採用プロセスと採用理由というスコアリングを追加

採用プロセス・理由

総合商社=△

外資系企業=◎

公的機関=〇

 

すると、ここで商社と外資のスコアが入れ替わります。

 

このスコアリングの最終的な決め手は

 

総合商社が採用したいのは名もなき戦士であって、自分ではない。

 

いずれ総合商社という大組織に溶けゆく、毎年入る数多き新人の一人であって、会社を支えるべく戦士となれる器がほしいだけ。

 

そう見えたことです。

 

要は、器に何を入れるかを決めるのは会社だから、あとはお前らはその器を磨けという純然たる有名企業の理を感じた点が大きかったです。

 

そこのお前が最も苦手とする「組織に合わせて自分自身の振舞いを合わせ、染まる」必要のある状況が待ち受けていることが分かったのです。

 

これはやめたほうがいい。そう直感しました。

 

仮に総合商社に入ったら、お金は放っておいてもたくさん貰えたでしょうし、仕事上は自我を抑えて、別人格を用意すれば、その経歴を紙上で見れば素晴らしいものになったでしょう。

 

若いうちは総合商社で働いていますと社名を言えば、おおお!と歓声が上がったり、合コンなんかでも注目を獲得しやすかったことでしょう。

 

昔の恩師や知り合いに発表したら胸を張れたでしょうし、マイナスのイメージをもたれることはまずなかったでしょう。

 

周囲の注目度はそれこそ過去のそこのお前をはるかに凌駕するものになったでしょう。

 

だが、それで本当に幸せだろうか。とも思いました。

 

結局、“そこのお前”個人としての必要性があり、大切にする意図のある採用とは思えなかったのです。

 

志望人数が多い故か、採用プロセスというベルトコンベヤに流れてくる大量の製品を検品し、合格・不合格を振り分けているだけの採用プロセスに最も違和感を抱きました。

 

将来の行き先はさておき、一定ラインを超えているから合格として取った。それぐらい簡単な基準に見えました。

(※そこのお前がそうだっただけで、他のもっとドラフト1位的な候補には違ったものがあったのかもしれませんが。だとすればなおのことはいらない方がいいでしょう。)

 

対して外資系企業は、採用過程における分析・調査の烈度が非常に高く、

この能力とこの性格を評価して、こうなってもらうために取った。少数精鋭として大切にする。

そのメッセージが非常に明確でした。

 

そして結局、最後は自分が自分たらしめるために、会社に依存せず、きちんと自立・成熟できる人生を構築するにあたって、最も将来のキャリア上の選択肢が多くなるであろう外資系企業を選びました。

 

ただ、周囲の同世代だけでなく、親世代から見てもこの選択は怪訝に映るようでした。

 

親からはなぜ商社に行かないか?ということよりもなぜ外資系に行くのか?という点について強く懸念を示されました。

 

特に決断に影響を与えることはありませんでしたが、母親には理解されるまで時間がかかりました。

 

その時言われたのが、

外資系は社員を大切にしない。(日系企業の方が社員の面倒を見る。)

日系企業の方がきちんと人間として育つ。

 というものでした。

 

興味深い意見です。

 

そこのお前が入社先を選んだ基準がそのまま真逆の意味で否定に使われていました。

 

もう少し背景を探っていくと、母親が社会人として会社勤めをしていたのは少なくともバブル崩壊前です。

 

その時の体験をもとに言っていたのか、ただ単に自分の知らない世界が怖いだけだったのか。

少なくとも、親世代にとって外資系と日系企業の対比をした場合、こういう認識のようです。

 

その本当の理由は?

 

年功序列制や終身雇用慣習があるとされる日本企業にいた方が将来の発展と個人の安泰の両立のレベルが高かったからでしょうか?

 

ナショナリズムの観点から外資系企業なんかで働いている奴は売国奴だ!とみなす風潮でもあったのでしょうか?

 

それとも、日本企業の長くじっくりと広範な育成していく風土を指しているのでしょうか?

 

あまりしっくりくる分析がないので、今一度、最初に気になった点をもう少し分解してみますと

「社員を大切にする」

「きちんと人間として育つ」

これらの何かを言っているようで何を言っているのか明確ではない言葉の意味の違いは何でしょうか。

 

おそらくいろいろな知識や体験、考えが蓄積・集約された結果、この言葉が発されたと思うんです。

ただ、そこのお前の母親が会社に在籍していた時から30年以上が経った現代を生きるそこのお前世代からすると異なる意味に見えます。

 

「社員を大切にする」とはどういう意味か?

―>一度採用した以上、会社になじむように鍛え上げ、絶対にクビにすることなく定年まで面倒を見、安定的な給料や福利厚生・十分な企業年金や退職金を保障することでしょうか?

 

―>それとも、個人の個性や希望・長所を尊重し、個人を最大限活性化するためのキャリア構築及び戦略的選択を行わせることでしょうか?

 

「きちんと人間として育つ」とはどういう意味か?

―>日本人として日本人が好むマナーや文化的倫理観が身につき、成熟していくということでしょうか?

 

―>より多様性のある環境を選び、均質化を図る集団内または日本や会社特有の常識以外の感覚を身につけ、生きることができる場所を増やすことでしょうか?

 

こう比較してみると、いずれも母親がそこのお前と同年齢だったころに比べて、これらの抽象的な言葉が持つ意味が変わったと思います。

 

実際に、今の日系大手企業がどんどん外資系企業のスタンダードに寄せつつある実態はあると思います。

 

部門別採用導入や福利厚生の削減、成果主義の導入、早期退職も含めリストラや分社化・雇用の非正規化による待遇の差別化。

 

これら外資系企業に先例が多く存在する取り組みにより、日系企業が持っているアドバンテージの前提が崩れていることをそこのお前世代は強く感じさせられていました。

 

いや、真実はもっと残酷です。

 

そもそも2000年に入ってから日本人の平均年収は下がり続けています。

国税庁の統計に準拠しますが、歴史上、平成9年の467万円が日本史上最高の平均年収です。
ですが、ここをピークに下がり始め、。

直近でいえば平成22年度の408万円を底に平成28年度:422万円といまだに平成9年の水準に達してすらいません。

これは労働者にとっても失われた20年です。

 

さらに、平成10年時点での独立行政法人労働政策研究・研究機構の調査ですら正規従業員の削減(定年等による自然減、採用抑制を含む)計画がある企業は38%で、1社平均7.5%の定員減が計画いたとされています。

 

加えて、「長期雇用慣行は維持」する予定の企業は59.7%であり、冷静に考えて言えば昔の時点でも約40%の企業は長期雇用ではなかったと言えます。

 

繰り返しますが、平成10年の時点でこの状態でした。

 

そこから20年が経過する中で、毎年のように入社したら一生安泰といわれていたような企業がリストラや早期希望退職を推し進めていきました。

 

近年ではメガバンクが長期的人員削減を発表したばかりですね。

 

つまり、企業側が必ずしも社員の雇用を大切にしようと考えているとは言えない傾向は加速していると言えます。

 

現在は人手不足と言われていますが、それでも長期的雇用を避けたい企業の癖は抜けず、非正規雇用の割合が変わらない事と正規雇用との格差が取りざたされていますね。

 

 

また、もう一つ、価値観が違う要因を上げるとすれば教育環境です。

 

そもそも、ゆとり教育や人権教育の浸透ゆえに、意思に反する同質化を図ることをよしとはされず、絶えず正体のない「個性」という言葉によって個人尊重の概念を優先してインプットされてきました。

 

 

ブラック企業なんて言葉も流行し、日本企業自体が全体的に苦しい状況にあり、企業に入っただけで一生安泰ということは全くないという情報をより多くインプットされてきました。

 

更に、ネットの普及と社会の発展による選択肢の増加により、個人が頼る宿り木の単位は会社という単位に求めなくてよくなり、むしろ職・スキルに頼る方が合理的となるように変化しました。

 

グローバル化の波と「失われた10年~20年」により、日本人はこれまでのように日本人の中で日本人に対して最適化を図れば、繁栄と安泰を享受できる時代には区切りがついたのです。

 

20数年でこう変わるとすれば、そこのお前が親世代になっている頃にはまた意味が変わっているでしょう。

それに、そこのお前が就活をした後でもすでにトレンドは変わっています。

 

副業規定の有無だったり、残業の多寡、女性の活躍比率、その他さまざまな新しい指標や概念が登場しては移り変わっています。

 

今は人生100年時代の圧倒的に長い寿命などこれまでの終身雇用スキームが想定できていなかった数多くの点が社会問題の芽としてこれから大きな波となることが予想されています。


 

次は定年廃止だったり、企業間のより柔軟な人材の融通(転職だけでなく、出向・相互インターン・レンタル移籍っぽいシステム)、社会人になった後の学ぶ習慣などがトレンドになりうるんじゃないかと感じています。

 

こんな世の中で

もし、親の認識する尺度で価値判断を行ったらどうなっていたでしょうか?
親の意見に従ったら自分自身に胸を張れるキャリアにできていたでしょうか?

 

結果論、どっちを選んだ方がよかったはわかりません。

たらればの話は不毛ですが、いつの日も価値判断の尺度は変わります。

 

それでも、きちんと自分で思考し、腹を括って決めた道が良い道でしょう。

もし親にほだされて日系企業に行っていたら、生まれうる不満も親のせいにするという逃げ道ができたでしょう。

 

だが、それは人生の充実や成長につながる逃げ道ではなかったはずです。

 

最後は自分が腹を括れる方に行こうと決めていましたが、当時のそこのお前には少なくとも親の言う社員を大切にし、人間としてきちんと育つことができる企業は今そこのお前がいる外資系企業だったと信じています。

 

いろいろな意見を言われるのが人生ですが、そんな意見がどういう背景でどういった狙いで、どんな情報や体験をもとにできているかはきちんと吟味しなければなりません。

 

それらの尺度の賞味期限はどんどん短くなっています。

 

自分の人生は自分で決断できるように、ますます陳腐化しない人生を送れるように日々Updateが欠かせませんね。

 

 

ではでは!