なぜ子供だけが勉強させられるのか
最近よく思うんですが、
勉強しろ
とか
仕事しろ
やる気が出ない子供を叱りながら
「本当に言うことを聞かなくて。。。」
とか
「子供の自制心が弱い」
なんていう話を聞くたびに思うんです。
子供が勉強しないのは大人がそもそも勉強しないから。
これがもたらす要因は結構多いんじゃないかと感じ始めました。
ふと思いました。
そういえば、楽しくて勉強したことってほとんどないなって。
親からも最初はやらされて勉強やりましたし、唯一自分でやろうって思ったのは漢検の勉強ぐらいでしょうか。
それぐらい特に勉強の魅力を教えてもらったことはありません。
「私は英語が好きなのにどうしてこの子は英語に興味を示さないのかしら?」
なんて見当違いな理由を探す母親に抱いた違和感
「学校の勉強なんて社会では役に立たない」
なんてどや顔をする父親をみて、これ幸いと勉強しない理由をつける過去の自分がいました。
学校の授業もちゃんと聞いていたことはほとんどなく、態度はいつも悪いと評価されていました。
とはいっても本を読むのが好きだったりとか、社会の資料集を読むのが好きとかはあったので、その分、正攻法とは違う形で実力が身につきました。
好きなこと、自分が乗った事には集中できるパワーはあったので、幸いがっつり落ちこぼれずには済みました。
が、コツコツ努力した成功体験があまりありません。
これを聞いて批判する人は多いかもしれませんが、誤解なきようにしますと以下の点を感じたわけです。
「やらなきゃいけないからやる」を除くと勉強しない自分
そもそも勉強をつまらないものだと思い込んだ状態である親
淡々と勉強をすることの成功体験がほぼ皆無な親
こういう考えに至ったのにはいくつか理由があります。
そこのお前も子供を持つことを人生の中で一度は経験したいと思うのです。
仮にそうなった時にどのような親であるべきかを考えた事
そもそも学生アルバイトとして塾講師を経験していた時のこと思い出しました。
子供は大人の「やらなきゃいけないからやる」という論理に慣れていません。
それよりももっと直接的で直感的な動機を持ちます。
やりたいからやる
とか
親に褒められたいからやる
とか
怒られるからやる
とかそういった類のものがメインです。
「やらなきゃいけないからやる」はいずれ覚える
いずれ社会に出るにあたって、やらなきゃいけないけどやらない事で損をする場面を数多く味わいます。
ですが、小学生以下では自分が考えて取り組むというよりはそういうことなんだなとを鵜呑みにしてやるだけです。
本質的な意味なんかわかりっこない時期です。
正直、自分も高校生の時に言われてもわからなかったことで今になったらわかることって結構多いです。
小学生以下だったり中学生レベルではまだまだ将来にイメージがつかないため、ますますわからないわけです。
だから、自分のやりたいようにやる。それダメなら親が生きているように生きる。周りの友達がやっているようにやる。
そういう場面は数多くあります。
親が子供の背中を見て育つというのはそういう事です
それに子供は親だけでなくいろいろな人も見ていますし、敏感に感じ取ります。
そういった周りの環境に左右される時期を超えて、本人の自我と共に長期的な目線で考えることができるようになるのは早くて中学生の後半かもしくは高校以降です。
場合によっては一生考えられない人もいます。
それまでは本当に周りの環境が大きく個人を左右することになるのです。
それに、大人だってかなりの部分を環境に支配されています。
だったら子供は言わずもがなですね。
この状況で「やらなきゃいけないからやりなさい」は非常に非効率的なわけです。
まぁそういう状況への対処法を教えることも大事なんですが、親が勉強をやらせる場面はそれに該当するといえるでしょうか。
全く運動に関心のない親の子供が親にやらされてアスリートを目指すだろうか。
全く勉強に関心のない親の子供が親にやらされて研究者を目指すだろうか。
簡単にまとめるとそういう事だ。
親が全く勉強しないクセして子供に自発的に勉強させようってのがまず変かもしれません。
子供からすれば親が勉強しないくせになんで勉強しなきゃいけないんだ??
って思われているかもしれません。
それに、親が勉強しないなら将来勉強しなくてもいいんだろうな。
なんて思ってしまいます。
つまり、親自身が勉強をいやだけどやらなきゃいけないものだと教えるから子供だってそういう風に認識する。
そうするとどんどん親は強い力を持ってやらせなければならなくなるという悪循環です。
勉強に関してこれが起こる背景にはいくつか根深い問題があると思います。
元々の関係性
そもそも、親である場合は先生やほかの生徒と違ってもっとずっと幼い言葉がまともにわからない時からの付き合いです。
その頃の言って聞かせることが通用せず、理屈は抜きにして「やりなさい!」という時期もあります。
これがそのまま抜けずに言葉を理解するようになってからもごり押しを継続することがありえます。
これ、意識していても難しいんです。
だから親は起こってしまったことに悩み、反省はすれど、また怒るのです。
だって、わが子を愛し、心配するにもかかわらずその本音が伝わらないから。
子供の興味の偏り
仮に勉強に興味を持っていたとしても偏りが出るケースがあるわけです。
そうすると現実的にみて教育課程をよく潜り抜ける戦略上はうまくいかない部分がありうるわけです。
そのため、子供の興味が向かない部分も「やらせる」という事が必要になってしまいます。
そういった状況でなんでも楽しくという事は難しくなります。
これらが親による原因です。
周囲の環境がもたらす問題
例えば勉強に関して、最も身近な大人は教師や塾講師と言えます。
先生の限界
教師は勉強を教える以外にも様々な業務があり、見る人数も尋常でなく多いですね。
つまり、一人一人に時間をかけて個性を完璧に把握するには限界があり、指導もある程度時間的制約を受けます。
一方で塾講師も、彼らは大半が学生アルバイトや非常勤の講師で構成されています。
専門の講師となると非常に少数であり、その中でも勉強を苦しい物でなく教えられる人というのは非常に限られています。
そういう専任講師は基本的にはものすごい高いお金を取る場合もあれば、もっとレベルの高い講師(大学受験や受験以外の講師)
をやっているケースが多いのです。
トップクラスの受験塾なんかは入塾テストを課し、優秀な講師には限られた優秀な人しか付けないという方式をとります。
つまり誰もが入手可能なリソースではないということです。
そのためにお金を積む場合もあれば、子供を鍛えることもあるわけですが、場面としては高度で限定的です。
つまり、子供の基礎学力の段階ではなかなか巡り合う可能性が少ないわけです。
勉強の意味や楽しさを直接的・直感的に教えられる人に。。。。
だから、大人がそもそも勉強する楽しさを知らないといけないと思うんです。
何かに迫られて勉強するサイクルだけではそれを獲得できないわけですが、挑戦することや新しい刺激を受けること、勉強することに楽しさを覚えるような習慣を大人が獲得する方がよっぽど子供には効くでしょう。
心理学的にも教育現場の研究からでも同じような結論は導き出されています。
身近な大人自身が人生を充実させる習慣がなければ子供はそれを見習わないのです。
実際、大人世代になっても仕事以外に勉強を欠かさず、常に自己鍛錬をしている人の割合は多くありません。
海外のデータはわかりませんが、日本では30%の人が本業以外に何かしらの勉強をしているというデータもあるようです。
が、どうも体感的にはもっと少ないように感じます。
本一冊読むことすら勉強に該当するというのであればまぁそんなもんか。。。
といったところなんですが、恥ずかしながらそこのお前もそこまで勉強しているかというとそういうわけではありません。
これを改めていく必要があるなと思います。
このままだと結局、やらなきゃいけないからやらせるっていう「つまんないスパイラル」を脱却できないままで終わってしまいそうです。
勉強の中には苦しい部分も数多くあるが、楽しい部分が教えられなかったら身が入る可能性は低いままなんじゃないかなぁ。
そんなことを思うわけです。
子供と一緒に勉強するでも何か新しいことに取り組むでもとにかく堂々と背中を見せられる親をめざして変わっていきたいものです。。。