人生で初めて全てのルールや行動に明確な目的や意味が必要だと自覚した瞬間
今回はちょっと与太話を挟みます
多様性を受け入れるための素地の話
今はいろいろな価値観が共存する世界です。
それは自分にとって優しい反面、人にも優しくなる必要があります。
絶対的な正解がないからこそ、それに頼らないためには何が必要かという話です。
多様性の時代だからこそ、他人の事より先に自分自身を理解しなければならない
今考えるとこれを感じさせてくれるきっかけは高校野球から大学サークルに移った時に感じた違和感・カルチャーショックだと思います。
カルチャーショックはタフですが、極力若い内に乗り越える経験を積んだ方がいい。
若い時の方が乗り越えるハードルが低いですし、もし失敗してもあとあといくらでも取り返しが利きます。
同時に、将来、予期なく起こる人生のカルチャーショックに対して慌てないで済みます。
そこのお前は海外生活を普通にしていますが、カルチャーショックの経験が少ないと環境に馴染めず、自分自身のパフォーマンスや幸福を損なうリスクが高まると言えます。
さて、そんなそこのお前は高校まで野球をやっていました。
そんなに強くない高校だったので、世間でニュースになるような超絶キツい環境だったわけではありません。
が、最大で60名程度、少なくても40名弱のチームでしたので、中学生の部活に毛が生えたようなチームというわけではありませんでした。
事実、学校の中では最も厳しい部活として認識されていましたし、実際かなりストイックな生活をしていました。
そもそも、この部活、諸般のルールも含め、かなり会社組織の論理に近いマネジメント下にありました。
上下関係や規律を重視する。
決められたルールはメンバー全員が守る
全員が一つの目標にむけて常に全力を尽くす
自分の思い通りにいかないことがあっても我慢する
などなど社会的・集団的行動をする上で必要な要素を徹底的に叩き込まれました。
特に集団行動にあたり、指示系統と追従性についてはかなり明確に意識させられ、集団としての規律や全体で成果を最大化するための分業等もかなり強く仕込まれました。
というのも、当時流行りだしていた
野球のための部活ではなく、人間として成長するための野球
というワードを標榜していたので、野球の実力はさておき、かなり意識の高い系の仕込まれ方をしました。
それは生活態度や食事にもおよび、サラリーマンなんか目じゃないほどの制限を掛けられていました。
・ジュースは100%ジュースのみ可
・お菓子・アイスクリームなどの栄養価の少ない食べ物は禁止
・1日4食+アルファで授業の合間に朝部活で炊いたご飯をタッパーに詰めて授業の合間に食べる
・夏休みは教室に簡易ベッドを張り、全員で半月程度合宿
・原則、強制坊主
・寮生活者は洗濯や清掃はすべて自分で行う
・毎日朝練=>授業=>昼休みトレーニング=>授業=>練習
などなど
今考えると、人生の中では相当にエグい時期を過ごしました。
そんな高校野球を経たそこのお前ですが、そういう風なストイックな集団内行動、みんな出来るもんだと思っていました。
だって、中学までしょぼっしょぼのそこのお前が対して強くなかった野球部でやったようなことですから、世の中にありふれているだろうと勝手に思っていたのです。
野球の強さと自分の中学までの周囲との相対的自己認識をそのまま外部に当てはめていたわけですが、実際は違いました。
ストイックな部活ってやっぱり特殊ですね。
大学に入って味わったカルチャーショック
大学に入って、活動のフィールドは部活からサークルに移りました。
このサークルの方が今どきの会社組織の理想に関するトレンドを表している気がします。
要は
個々のペースを遵守し、個人の希望をベースに各人が柔軟に周りと調整、決定、行動をするという方針
です。
これを可能にするのが
同様のことができる選択肢の多さと滅私を前提としない多様性を歓迎するマネジメント
です。
高校の部活と違い、サークルは出入りも比較的簡単で、同じようなことをやっている団体は多くの場合、複数あります。
堅苦しくもなく、楽しむことを目的としている方が多いですし、部活動と違って参入障壁は非常に低いです。
そのため、軽い気持ちで入っている人、めちゃめちゃアツい気持ちを持って入っている人の差がものすごく極端でした。
そこのお前の高校野球体験のようなストイックな集団を経験した人は少数派であり、特殊であるということを思い知らされました。
当時、「やるからには絶対に勝ちたい」という負けず嫌いな気持ちが割と強いタイプで、野球部での教育と相まって最初にやりたくなくても一度乗り掛かった舟なら粘ってそのまま続けるべきという考えでした。
対して、ちょっとなじまないとサークルにいても意味ないな。ちょっと合わないなと感じるとすぐどこかへ行ってしまう人も多くいました。
これらの人を見て最初はびっくりしたものです。
なんて心が弱い奴なんだとかなんて節操のない奴なんだ。。。
なんて。
今考えると青いなあと思いますが、その時は本当にそう思っていました。
同時に、当然サークルであっても組織ですので、それぞれに規律や必要なルール等があってしかるべきと考えていました。
ですが、これも高校野球時代に比べたらすべてがゆるゆるで特に強制力を持たないものです。
ルールというよりはその場や構成メンバーの雰囲気やノリの方が拘束力を持つ世界でした。
これも非常に大きなカルチャーショックの一つでした。
割と簡単にルールが変わりますし、守らなくてもまぁいいかってことも多いです。
これがまた非常に大変でした。
他のメンバーならまぁいいかって流すところも気になって仕方ないのです。
かといって口うるさくいう意味もなく、非常にやりづらい不思議な感覚になりました。
なんてちゃらんぽらんなんだ!って本気で思っていました。
ですが、ここでようやく学んだのです。
たしかに、
・いやになったらやめたって困ることはない
・他に目指すべきものがある場合、人生の優先順位の観点で力を入れなくてもいい
・無理して集団に自分自身を合わせなくても生きる戦略がある
こういう考え方や世の中の泳ぎ方があるという事を。
言い換えると、
すぐに離れる人のも彼らなりの人生戦略があり、サークルが全てではないこと。
意味ないなと思ったらさっさと撤退したほうが人生における損失を回避できること
無理して我慢しなくても、他にやりたいこと、やれることはいくらでも見つけられること
ストイックに厳しくし続けることだけが正解ではないこと
そこのお前の過去18年の常識ではありえないものでしたが、そうやった方が人生得する場合があると理解しました。
そして、彼らは彼らで人生を真剣に考えているわけです。
そして、今までの環境では特に考えずに従うことを是とされていましたが、それを、
・なぜこの行動をするのかの理解
・この行動は何につながっているのかの理解
・自分または周囲は何を目指したいのかの理解
これらを明確に意識できないとあまり人と効果的に関われないという事を理解しました。
それも、自分が上記3点をどう考えて周囲と関わろうとしているかで大きな違いがありました。
野球部のような組織で決めたら高い精度で守るという事ができればいいですが、そうではない場合、上記のをきちんと理解・整理できないとうまく組織としての体をなすことができません。
他に取りうる選択肢が大量にある環境では、意味不明で先行き不明なものに時間を投資できるほど人のメンタルは強くありませんし、バカではありません。
もちろん続けることに大きな価値がある場合もあるので、意味不明でも続けることで成果を出す方法はありますが、それはやる側の心がけであって、他の人にそれを強制できるようなものではありません。
全く違う環境に飛び込むこと
そもそも前述の高校生スポーツの多くは非常に狭い競争の世界でできています。
この世界にどっぷり入ること自体がそもそも全く違う環境
野球でいえば、甲子園優勝校1校を残して全員が敗者となる年1回の残酷なトーナメントに少しでも勝ち残るため、様々な努力をする環境。
そこのお前は弱い高校だったので、常に成果が出るかわからない苦しいことに対して粘って粘って成果が出るまで自分を信じてやり抜くことを叩き込まれていました。
ただ、幸いなことに先輩が神で後輩が奴隷といった極端な旧体質ではなかったですし、体罰やいじめなどが生まれるような環境ではありませんでした。
(※ある程度の上下関係はありますし、不真面目な部員に対する指摘は多かったですが、面と向かって言い、よくなれば称賛します。陰湿に追い込むようなものはありませんでした。)
ただ、疑わない個というのが量産される環境にいたということです。
つまり、特にルールや自分の行動に対して明確に意味や目的を考えたことがなかったわけです。
やれなければならないからやる。やることになっているからやる。
特に自分の行動が何につながっているかを考えない環境でした。
つまり、自分が何なのかなんて考えたことがないわけです。
それぞれの環境にはそれぞれの環境に最適化された常識や構成集団や時間が形成するカルチャーがあるわけですが、これがどんなものかという事を客観的に見る目を持てなかったということです。
思春期にこのカルチャーにいたことから、高校野球時代に叩き込まれた部分は社会に入ってもそこのお前に大きな影響を及ぼしています。
どうしても集団的調和と集団で一つの目標を追い求める論理に染まっているので、あんまり破壊的なイノベーションや常識外の破壊的成果を出すような行動や考え方がいまだ得意ではありません。
どうしても今の状況の延長線上で物事を考えてしまいがちです。
ですが、このカルチャーショックを経験することができたことで自分が考えていることを整理し、相手が考えていることを理解し、その違いをきちんと認識した上でココミュニケーションを取られねばならないと理解しました。
多様性を受け入れるということは思ったよりも大変な世界
自分は自分のままでいい。そう短絡的に捉えがちですが、それだけではありません。
今までの自分を環境に合わせることによるストレスが軽減される分、相手が相手のままでいいと思うことを尊重しなければなりません。
むしろ、相手を尊重するにあたって、どんな時に自分がストレスを感じるのか、どんな考え方と自分が親和性があるのかを分かっていないと自分と相手の関係をうまく定義できないわけです。
違うというストレスを受け入れる
絶対的な正解がない分、種類の異なるストレスを受け、衝突をコントロールしなければならない場合があります。
その時にも自分を理解する必要があるわけです。
それに対処するにはこの「ルールや行動の明確な目的や意味」を常に考え、理解しておくことが必要だと実感するきっかけが大学サークルでした。
なぜ自分はこれをやっているのか、なんでこのルールがあるのか。そして、意味はあるのか。自分自身が意味を感じているのか?などなど
それがないとただ盲目的に何かの主張を繰り返すだけになってしまいます。
今では、外資系企業という流動性の高い場所にいながら、野球部経験でよかったところは活かしつつ、幅広い視野で物事をとらえられるようになってきました。
新しい環境にもそこまで動じることなく行動できる心構えを作ることができました。
こんなカルチャーショックはこれからも起きるでしょうが、そのたびに自分の知らないところで植え付けられた常識のものさしで人を測っていてはいろいろと見誤ってしまいます。
ものさしも常識もどんどん多様化し、差が出てくることで、カルチャーショックに出くわす可能性が高まりました。
そういう時にびっくりしてして困らないためにも、若い時に経験しておいてよかったなぁと思います。
まだまだ世界は広いものですが、それよりもよくわからない自分という状態をなくしてい行きたいものです。
今日思うことはそんぐらいです。