そこのお前の外資系勤務と与太話ブログ

凡人が行く外資系企業勤務やキャリアの与太話や裏話。緩いのと辛いのまぜまぜ。人見知りやビビりだって人生案外イケるじゃんって思ってもらうための与太話。毎週月曜・水曜・土曜日更新予定

成果主義の導入・実施で苦しむ現実が暗すぎる話

今日、ますます主流になる成果主義の暗い部分の話

 

厳密には成果主義の中にもいろいろな考え方がありますが、一般的に日本では年功序列賃金+終身雇用システムの対をなす考え方として掲げられますね。

 

そこのお前が勤める会社も外資系企業なので、成果主義を標榜しています。

個人的な感覚では昇進スピードも大手日系企業と比較しても早く、昇給もある程度は成果に応じて変動します。

 

若いうちからチャンスがあるという意味では申し分ない環境と言えます。

とはいっても洗練された成果主義かというと必ずしもそうとは言えません。

 

結構いろいろなところにしこりや吹き溜まりを抱えた闇のある話です。

 

今日はそんな話をします。

 

成果主義の目指すところ

 

そもそも、この成果主義、より価値のある人間に多くの対価を払うという考え方です。

その中には年齢も性別も国籍も関係ありません。

 

要求される成果をいかに達成するかのみに着目し、ビジネス・企業の本質に忠実な賃金体系にしようというものです。

 

とまぁ、考え方的には非常にクリアで合理的だと思うわけです。

個人的には好きな考え方です。

キャリア的にはまだまだ若く勢いのある序盤においてチャンスをつかむ可能性を高めてくれます

 

現実にはいくつか制度的な限界がある

 

 

成果主義といってもすべての仕事が成果に直接比例するわけではない。

 

成果に応じた報酬の多寡にはルールを作る側の限界があり、これを打ち破ることができない。

 

減点主義的な性質を持つ仕事にフィットしない。

 

個人的にはこの3点が非常に対処の難しい部分だと思っています。

 

あとは、この世が一つのルールによって統べられていない以上、成果主義が普通になればなるほど、成果に対してどの程度お金を払うか?

この点に変化の余地が生まれ、論点が集中します。

 

あの時はどれぐらい払ったじゃないか。

あそこはどれぐらい払っている。

ここではこれぐらい払うのが適切だ。

 

などなど様々な報酬の多寡を巡った議論が生まれます。

単純な金銭だけでなく、昇進のスピードなどで差をつける場合もありますね。

 

ですが、どうしても全員の思う通りにはいかないわけです。

 

むしろ年齢や年次のように誰にでもわかる、しかも不可変システムではない以上、不公平感を感じやすい環境なのです。

 

俺の方がよかったに決まっているのに!

とか

私の方が活躍した自信がある!

とか

上の人から良く見られていない!

とか

絶対に価値があるのに成果として認められていないなんて!!

とか。

 

成果という可変的であいまいな言葉に対して何かと不平等感や不公平感が生まれるのは避けられないことです。

 

こういうことは年功序列+終身雇用でも起きていたのとは思うのですが、それがさらに加速するんです。

競争を煽ることもこの制度の目的なので、がっちり格差をつけていく必要がある訳です。

 

会社からの報酬獲得が「企業に所属した長さ」ではなく「もたらした価値に基づく」という考え方自体は非常にシンプルであるべき姿であるとは思います。

 

それでも、正しくてもうまくいかないのが世の中です。

 

結局、様々な部分で歪みが生まれます。

 

成果主義の途中導入における暗い現実の話

 

 

コンセプトの良し悪しは別にして、この制度の途中導入が暗い現実を生み出します。

具体的には成果報酬をゼロベースで考えることができない場面のことです。

 

成果主義を途中導入する場合、成果に応じた評価・報酬体系といっても基本的に今ある報酬体系の中で誰にどれぐらい配分するかを変えるという程度の話です。

なので、全員の報酬が上がるという魔法の制度ではありません。

 

 

大手企業や歴史の長い企業で先に年功序列や終身雇用を重視してきた企業で特に問題になりやすいです。

これらの企業が年功序列賃金から成果報酬に移行する時に大きな壁となって立ちはだかる点があります。

これが暗い現実を生み出します。

 

この移行で損をする層をどう救済するかという点

 

 

早期退職で追い出しに近い整理を行う場合や分社化による所属整理などを通して区分けする場合もありますが、そう簡単にはいきません。

彼らにも積み上げた技術や経験、貢献してきた過去があります。

 

バッサリとイけるほど無能ばかりということは絶対にありません。

むしろそれをやることで企業を去ってしまい、技術・経験・労働力の流出が起こる方が問題になる場合もあります。

 

つまり、成果主義によって得をする層だけでなく成果主義によって損をする層をうまく懐柔しなければならないわけです。

 

成果主義がもたらす影響

 

得する層は今までよりも活躍に応じた給料を手にできます。

例えば、若手でエースと呼ばれるような人達

彼らはこの制度で最も恩恵を受ける人々といえます。

 

エースでなくても若手は現在の低い水準からさらに下がることは考えにくく、チャンスのみを得ます。

彼らは将来にも昇進を重ねたり、昇給を勝ち取ることが予測されるわけなんですが、それでも現時点では年上世代よりは無条件に低いわけです。

 

この場合、年功序列賃金制度下における活躍は将来にいい地位に就くための投資としての側面が強いですね。

それが、成果主義の導入によって現時点でもより多くの金額を手にできる可能性が生み出されます。

 

ただ、最大の欠点はエースや主力級は企業の中では10%~20%に限られる点

 

そのため、多数決という土俵では強い立場にはなりえません。

 

残り80%にとってはさして有利ではない、または不利な制度に代わってしまいます。

安心して企業に安住できるという環境ではなくなるわけですから。

 

残り80%の代表格

 

不思議なもので、あれだけ会社に尽くせと下の世代に説教を垂れる層がこれに反対するんです。

最近の若者は出来が悪い。

とか

ゆとり世代は人間がなってない

とか

愛社精神や企業に対する忠誠心が足りない

 

などと若い世代にケンカを売ってきた世代が顔を真っ赤にして反対するのです。

 

(※若い世代にケンカを売っている人が無能な人とは限らないですが。。。)

 

もちろんベテラン世代も一枚岩ではありません。

若手に期待する層もいれば、若手の台頭を心底恐れる層もいます。

 

ここで問題になるのは後者の若手実力者の台頭を恐れる層

 

 

理由はいくつかありますがほぼ以下の点に収束するといえます。

・彼らは年功序列制の頂点にいるので、この権益を失う可能性を生み出すことは受け入れられない

・できる人とできない人で埋められない差ができてしまう。

 

そのうち、中堅層からベテラン層の世代特有なのが結局1点目です。

彼らだって全員がエースではないわけです。

 

成果主義にすると彼らの中でも格差が生まれます。

それどころかすでに出世競争の結果や配属経歴からある程度自分のキャリアの限界を迎えた人もいます。

 

ですが、年功序列賃金制であった場合はそれでも高い給料になります。

特に何かを考えなくてもそこについてはリスクのない現実あったのです。

 

 

成果主義はリスクのない安定昇給を取っ払います。

 

 

中堅世代はこれから得られたであろう権益をなくします。

ベテラン世代はこれからは下がることはあっても上がることはないという不利な状態を迎えます。

 

若い世代の台頭を抑えてさらに活躍できる自信がない人もいます。

それに彼らが若い時に得られなかった可能性を下の世代が得ることを受け入れられないのです。 

 

彼らはすでに実力で高い報酬をつかみ取るチャンスと気力がないかもしれません。

そんな中で移行されてしまっては彼らは行き場を失います。

 

なんなら、若い世代に給料で負けてしまう可能性が出る訳です。

 

移行する過程にはそんな世代間衝突が起こるわけです。

 

 

それは当然そうです。

実力のある人間を登用し、より価値のある仕事に報酬を分配しようという風に変わるのだから損をする世代は黙っていられません。

 

すると、そういう刺激と競争に満ち溢れた世界を望む層は少数派になります。

だって、いつの日も勝者の裏にはたくさんの敗者がいる訳です。

 

これでは労使間合意に至りません。

 

 

結局、中堅・ベテラン勢の既得権益にある程度配慮しつつ、若手には成果で評価するといったダブルスタンダードっぽい実態になったりします。

 

結果的には本来意図していた成果に応じた報酬体系には程遠い内容で中途半端な合意形成がなされ、成果主義を謳うのに中身が伴わないなんてケースがありえます。

 

するとより実力のある人間はもっと成果主義による報酬をもぎ取れる環境に流れていきやすくなります。

中途半端な成果主義を持つ企業は逆にトップ層をも失います。

 

中途半端な成果主義ではあまり報酬に差がつかず、かといって年を取ってから報酬を十分に得られる保証もないからです。

 

つまり、どっちつかずな環境にいること自体は損失なのです。

大して差のつかない成果主義にいては若い時にもチャンスが少なく、老後にも確実性のない寂しい現実を迎えるのです。

 

これが企業内で起きている年功序列=>成果主義の過渡期の暗い部分の一つ

 

成果主義にしたらかえって優秀な人を失ってしまったという皮肉が生まれる構造です。

考え方が問題なのではありません。

変化を生み出すには成果を出す側が数の論理上で弱すぎるのです。

 

ここのかじ取りを間違えた場合、実力層も失いますし、高い給料のまま低い成果の人を雇い続けなければならないという不都合な部分だけを被る可能性があるという事です。

 

世の中理想通りにはいかないものです。。。

日本における成果主義が発達するにはもうしばらく時間がかかるでしょう。

 

 

【キャリア】 外資系への就職は勝ち組か?【就活】

勝ち組と聞いて何を想像しますか?

 

莫大な不労所得を保持している状態?

玉の輿婚?

超有名企業に所属すること?

 

まぁ、人によって答えは様々だと思います。

が、ポイントは

人の人生に勝手に特定の指標を持ち込んで勝ち組と負け組を分ける

 

という風潮があるという事です。

 

ただ、何を持って勝ちや負けとするのかはわかりません。

 

収入なのかパートナーとしての素晴らしさなのか、はたまた社会的ステータスなのか。

また、日本人特有なのかどうかは不明ですが、所属によって勝ち負けを判断するというのも非常にポピュラーな基準といえます。

 

とかく、何かの比較可能な基準に基づいてジャッジしたがる人

 

学校でも会社でも友達内でも何かしら差が出るところに火種が生まれます。

さて、社会人界隈でもどこの企業にいるかで勝ち組や負け組を判断したがる人が一定数存在します。

 

自分に自信がないから何か自分以外にその自信付けを求めるのか、本当に所属する企業が人生の価値を決めると思っているのか、単なる話題の賑やかしかは様々ですが、どの企業に在籍しているかという話に強い関心を抱く人はいます。

 

企業だけでなく、学歴もそうなわけで学歴コンプレックスとかいう現象も一般的によく知られていますね。

 

気にしてしまう時期は必ずありますが、これほど自分自身を幸せにしにくい判断基準も他にありません。

 

だって、上には上がいるんだから。

 

どんなに上っても上がいますし、自分を基準に自分より上とか下とか図れるほど人の人生は単純ではありません。

また、その基準を使いこなすどころか自分自身がその基準にとらわれてしまいかねません。

 

外資系が勝ち組だという幻想

この判断は個人的には短絡的でナンセンスだと思っています。

 

sokono-omae.hatenablog.com

 

 

 

 

ですが、実際のところ、企業の看板を掲げることで社会的ステータスを感じたり、ベネフィットを得ることができる状況は少なからず存在します。

 

所属する企業によって個人の人生が左右されることは間違いない

 

 

同じ仕事でも給料が天と地ほど違う会社もあります。

一つの仕事がもたらす社会的な影響が全く違う企業間の差も存在します。

 

が、本当に「所属」だけが勝ち負けを分けるか。

 

 

会社では職場環境に大いに差が出るケースもあります。

同じような業界の会社でも文化が違ったり仕事のスタイルが違ったりします。

同じ会社でも活躍する人と活躍できない人には差が出ます。

 

同じ会社所属でも人や業務によって違いが出ることもありますね。

 

 

なので、所属を持って一概に勝ち負けを決するにはちょっと不確定要素がありすぎるものだと思っています。

所属がすべてを決めるには勝ち組集団は常に負け組集団よりも上回っていなければなりませんが、現実問題そういう風に超えられない壁があるケース全てではありません。

 

 

sokono-omae.hatenablog.com

 

 

そんな中で「外資系」とくくられる企業に所属することが勝ち組かどうかについてをもう少し掘り下げます。

 

就活生や若い世代に読んでもらいたい話

 

内定を得た企業とか入った会社ですべてが決まったような気分になりやすいこの世代の人たちに、キャリアはもっとずっと長い果てしないいろいろな起伏がある道のりだということを見直すきっかけにしてほしい記事です。

 

さて、この外資系企業

一言で言うと勝ち組というにはあまりに差がなさすぎますし、安定的ではありません。

 

実力がある人だろうという推測はあながち間違っていないかもしれませんが、それも永続的な話ではありません。

 

個人的には

 

外資系企業勤務を継続すること自体が「勝ち組」であることを放棄しているキャリア

 

だと思っています。

 

全てが良くも悪くも安定しない外資系企業では既得権益という甘い汁を吸える場面はほぼありません。

社内のそういうものは海外本国が独占していますし、国内では外様扱いなので日系企業に比べて希少です。

 

 

sokono-omae.hatenablog.com

 

給料も比較的高いとは言われていますが、楽で高いわけでは決してありません。

 

 

金融・IT・法律事務所・コンサルなど様々な分野で魅力的な給与体系を持つ会社はありますが、何もしなくてもずっといい給料をもらうことができる企業は非常に少数です。

 

年功序列賃金でない分、さらに質が悪い

 

成果主義をより徹底していますので、良い上昇曲線に乗ればいいですが、全員がそうなれるわけではありませんし、一度上昇しても降格のリスクは日系企業よりも高く持っています。

歩合制なんかの場合はダイレクトに収入が変わります。

 

事実、外資系企業の中でもくすぶってしまう人は数多くいる。

 

純粋な実力以外にも様々な要素が絡んでいますが、皆が皆ばっちり高給取りというわけにはいかないのは悲しい現実です。

 

 

sokono-omae.hatenablog.com

 

 

むしろ、多数の人間はその上昇曲線にも乗らずに脱落するか平均的な上昇に落ち着く可能性の方が高いわけです。

 

結果を出し続けることによる上昇率が比較的魅力的だけで、なるべくできる人に集中して報酬を出し、格差を広げて競争をあおる主義な分、高い部分が目立ちますが、低い部分にはそれなりの厳しい現実が待ち受けています。

 

もちろん、

そういったチャンスをつかめること自体が恵まれていることだ。

 

という考え方もありですが、基本的に安心を得うることはないわけです。

 

努力を継続し、結果のために努力してようやく「勝ち組」に見える人生の上昇曲線に乗るわけです。

それは決して何もしなくてもということはありません。

 

sokono-omae.hatenablog.com

 

まぁ仕方がない現実です。

 

 

一方で、人のパートナーを指して、外資系に勤めるパートナーがいるなんて勝ち組じゃん!

というのは誉め言葉なケースもありますが、本当に雑なレッテル張りです。

 

やはり、外資系に入ったから勝ち組というには非常に短絡的。

 

 

外資系のキャリアにおいて第一線で活躍するためには往々にして非常にタフであり、常に厳しい戦いを求められる場所に身を置かねばなりません。

 

場合によっては恐ろしいぐらいのハードワークもあり得ます。

それは日系企業で強く昇進を目指す事とも一緒といえると思いますが、加えてメインの土俵が日本国外なわけです。

 

 

sokono-omae.hatenablog.com

 

 

キャリアにおける昇進の難易度も一気に上昇します。

つまり、勝ち組と聞いて一般的に思い浮かべるようなレベルでの昇進を達成することは異様に難しくなるわけです。

 

そのため、若い時はある程度勝ち組的な要素を持つかもしれませんが、その後においては勝ち組と文句なく言えるほどの状況に持ち込むことは難しいわけです。

 

むしろそれを勝ち取ったとすると勝ち組というよりはキャリアという意味では掛け値なしに勝者です。

 

ということで、

外資系に入ること=勝ち組と結論付けるのは無理がある

 

といえます。

 

こう考えるとあまり外資系企業がよく見えなくなるかもしれませんが、個人的には好きです。

自分を勝ち組と思ったことはありませんが、それでも若い時に在籍するには最適な場所だと思っています。

 

若ければ若いほどキャリア戦略上で重要な意味を持つ確率は高くなるという風には感じています。

 

努力が実り、成果が出れば比較的短いタイムラグでよい給料を手にすることができますし、年齢に関係な価値のある仕事をすることができるのでキャリアにおける成長のスピードを速める可能性は格段に高いと言えるでしょう。

 

もちろん、企業次第・運次第な部分は少なからずありますが、勝ち組だと驕ったり油断したりすることがない人にとっては最適な環境です。

 

勝ち組負け組と考えるよりも今取りうる選択肢をいかに多くするために努力できるかを考え続けたほうが圧倒的に豊かだとそこのお前は思います。

 

 

sokono-omae.hatenablog.com

 

そうでないと、常に何かの勝ち組を求めてさまよう他力本願になります。

自分ではどうしようもない部分もありますが、自分なりの勝ち切り開くことを考えていくことこそが勝ち組への正攻法であり、近道だと思うんです。

 

ほいでは

なぜ子供だけが勉強させられるのか

最近よく思うんですが、

 

勉強しろ

とか

仕事しろ

やる気が出ない子供を叱りながら

「本当に言うことを聞かなくて。。。」

とか

「子供の自制心が弱い」

なんていう話を聞くたびに思うんです。

 

子供が勉強しないのは大人がそもそも勉強しないから。

 

これがもたらす要因は結構多いんじゃないかと感じ始めました。

 

ふと思いました。

そういえば、楽しくて勉強したことってほとんどないなって。

 

親からも最初はやらされて勉強やりましたし、唯一自分でやろうって思ったのは漢検の勉強ぐらいでしょうか。

それぐらい特に勉強の魅力を教えてもらったことはありません。

 

「私は英語が好きなのにどうしてこの子は英語に興味を示さないのかしら?」

なんて見当違いな理由を探す母親に抱いた違和感

「学校の勉強なんて社会では役に立たない」

なんてどや顔をする父親をみて、これ幸いと勉強しない理由をつける過去の自分がいました。

 

学校の授業もちゃんと聞いていたことはほとんどなく、態度はいつも悪いと評価されていました。

 

とはいっても本を読むのが好きだったりとか、社会の資料集を読むのが好きとかはあったので、その分、正攻法とは違う形で実力が身につきました。

 

好きなこと、自分が乗った事には集中できるパワーはあったので、幸いがっつり落ちこぼれずには済みました。

 

が、コツコツ努力した成功体験があまりありません。

 

これを聞いて批判する人は多いかもしれませんが、誤解なきようにしますと以下の点を感じたわけです。

 

「やらなきゃいけないからやる」を除くと勉強しない自分

そもそも勉強をつまらないものだと思い込んだ状態である親

淡々と勉強をすることの成功体験がほぼ皆無な親

 

こういう考えに至ったのにはいくつか理由があります。

 

そこのお前も子供を持つことを人生の中で一度は経験したいと思うのです。

仮にそうなった時にどのような親であるべきかを考えた事

 

そもそも学生アルバイトとして塾講師を経験していた時のこと思い出しました。

 

子供は大人の「やらなきゃいけないからやる」という論理に慣れていません。

それよりももっと直接的で直感的な動機を持ちます。

 

やりたいからやる

とか

親に褒められたいからやる

とか

怒られるからやる

とかそういった類のものがメインです。

 

「やらなきゃいけないからやる」はいずれ覚える

いずれ社会に出るにあたって、やらなきゃいけないけどやらない事で損をする場面を数多く味わいます。

 

ですが、小学生以下では自分が考えて取り組むというよりはそういうことなんだなとを鵜呑みにしてやるだけです。

本質的な意味なんかわかりっこない時期です。

 

正直、自分も高校生の時に言われてもわからなかったことで今になったらわかることって結構多いです。

小学生以下だったり中学生レベルではまだまだ将来にイメージがつかないため、ますますわからないわけです。

 

だから、自分のやりたいようにやる。それダメなら親が生きているように生きる。周りの友達がやっているようにやる。 

そういう場面は数多くあります。

 

親が子供の背中を見て育つというのはそういう事です

 

それに子供は親だけでなくいろいろな人も見ていますし、敏感に感じ取ります。

 

そういった周りの環境に左右される時期を超えて、本人の自我と共に長期的な目線で考えることができるようになるのは早くて中学生の後半かもしくは高校以降です。

 

場合によっては一生考えられない人もいます。

 

それまでは本当に周りの環境が大きく個人を左右することになるのです。

それに、大人だってかなりの部分を環境に支配されています。

だったら子供は言わずもがなですね。

 

この状況で「やらなきゃいけないからやりなさい」は非常に非効率的なわけです。

まぁそういう状況への対処法を教えることも大事なんですが、親が勉強をやらせる場面はそれに該当するといえるでしょうか。

 

全く運動に関心のない親の子供が親にやらされてアスリートを目指すだろうか。

全く勉強に関心のない親の子供が親にやらされて研究者を目指すだろうか。

 

簡単にまとめるとそういう事だ。

 

親が全く勉強しないクセして子供に自発的に勉強させようってのがまず変かもしれません

 

子供からすれば親が勉強しないくせになんで勉強しなきゃいけないんだ??

って思われているかもしれません。

 

それに、親が勉強しないなら将来勉強しなくてもいいんだろうな。

なんて思ってしまいます。

 

つまり、親自身が勉強をいやだけどやらなきゃいけないものだと教えるから子供だってそういう風に認識する。

 

そうするとどんどん親は強い力を持ってやらせなければならなくなるという悪循環です。

 

勉強に関してこれが起こる背景にはいくつか根深い問題があると思います。

 

 

元々の関係性

 

そもそも、親である場合は先生やほかの生徒と違ってもっとずっと幼い言葉がまともにわからない時からの付き合いです。

 

その頃の言って聞かせることが通用せず、理屈は抜きにして「やりなさい!」という時期もあります。

これがそのまま抜けずに言葉を理解するようになってからもごり押しを継続することがありえます。

 

これ、意識していても難しいんです。

だから親は起こってしまったことに悩み、反省はすれど、また怒るのです。

だって、わが子を愛し、心配するにもかかわらずその本音が伝わらないから。

 

子供の興味の偏り

仮に勉強に興味を持っていたとしても偏りが出るケースがあるわけです。

 

そうすると現実的にみて教育課程をよく潜り抜ける戦略上はうまくいかない部分がありうるわけです。

そのため、子供の興味が向かない部分も「やらせる」という事が必要になってしまいます。

そういった状況でなんでも楽しくという事は難しくなります。

 

これらが親による原因です。

 

周囲の環境がもたらす問題

例えば勉強に関して、最も身近な大人は教師や塾講師と言えます。

 

先生の限界

 

教師は勉強を教える以外にも様々な業務があり、見る人数も尋常でなく多いですね。

つまり、一人一人に時間をかけて個性を完璧に把握するには限界があり、指導もある程度時間的制約を受けます。

 

一方で塾講師も、彼らは大半が学生アルバイトや非常勤の講師で構成されています。

専門の講師となると非常に少数であり、その中でも勉強を苦しい物でなく教えられる人というのは非常に限られています。

 

そういう専任講師は基本的にはものすごい高いお金を取る場合もあれば、もっとレベルの高い講師(大学受験や受験以外の講師)

をやっているケースが多いのです。

 

トップクラスの受験塾なんかは入塾テストを課し、優秀な講師には限られた優秀な人しか付けないという方式をとります。

つまり誰もが入手可能なリソースではないということです。

 

そのためにお金を積む場合もあれば、子供を鍛えることもあるわけですが、場面としては高度で限定的です。

 

つまり、子供の基礎学力の段階ではなかなか巡り合う可能性が少ないわけです。

勉強の意味や楽しさを直接的・直感的に教えられる人に。。。。

 

だから、大人がそもそも勉強する楽しさを知らないといけないと思うんです。

何かに迫られて勉強するサイクルだけではそれを獲得できないわけですが、挑戦することや新しい刺激を受けること、勉強することに楽しさを覚えるような習慣を大人が獲得する方がよっぽど子供には効くでしょう。

 

心理学的にも教育現場の研究からでも同じような結論は導き出されています。

身近な大人自身が人生を充実させる習慣がなければ子供はそれを見習わないのです。

 

実際、大人世代になっても仕事以外に勉強を欠かさず、常に自己鍛錬をしている人の割合は多くありません。

 

海外のデータはわかりませんが、日本では30%の人が本業以外に何かしらの勉強をしているというデータもあるようです。

が、どうも体感的にはもっと少ないように感じます。

 

 

本一冊読むことすら勉強に該当するというのであればまぁそんなもんか。。。

といったところなんですが、恥ずかしながらそこのお前もそこまで勉強しているかというとそういうわけではありません。

 

これを改めていく必要があるなと思います。

 

このままだと結局、やらなきゃいけないからやらせるっていう「つまんないスパイラル」を脱却できないままで終わってしまいそうです。

 

勉強の中には苦しい部分も数多くあるが、楽しい部分が教えられなかったら身が入る可能性は低いままなんじゃないかなぁ。

 

そんなことを思うわけです。

 

子供と一緒に勉強するでも何か新しいことに取り組むでもとにかく堂々と背中を見せられる親をめざして変わっていきたいものです。。。

文句を言う人はいつだってどこからともなく湧いてくる話

まぁ人生数十年生きる中でようやく何となくわかったんですが、

 

気にしすぎる人に心が軽くなってもらえればと思ってこの記事を書きます。

 

そこのお前はずっと強調している通り、ビビりで臆病です。

それを克服し、より自由な人生を送りたいと常々思いながら生きています。

 

どれぐらいビビっているか?とか自由か?とかはなかなか他の人と比べることが難しいわけですが、それでもいつも消えない弱い心と闘う日々です。

 

「人に文句を言われるのが怖い」という心

正直、そこのお前、この心が強いです。

プライドが高いと表現されたり、自己愛が強いとか、いろいろな過激な表現方法がありますが、まぁ心の中を説明すると以下の通りになります。

 

なんか間違っていたらどうしよう

とか

他者に不快な思いをさせてしまったらどうしよう

なんて考えてしまいます。

 

とてもそうは見えないと言われる場面も多いのですが、要はその配慮が苦手だから、そういうのをしなくていい気の置けない場面では問題ないのですが、社会に出るにあたって重要な場面やよく知らない人との関係でビビってしまうという事が多いです。

 

何にビビっているかというと「文句」を言われること。

 

何かしらのネガティブなフィードバックや相手が感情的に受け入れられない事があった時に起きやすいですね。

 

いつもその恐怖におびえていました。

 

おそらく必要以上におびえている気がします。

 

嫌われたらどうしよう

とか

攻撃されている

などの恐怖心を感じることで防御反応がギンギンに働いてビビって手が出なかったり、委縮して動けなかったりすることがあります。

 

ありもしない心配をして、変なところ気にするよねなんて言われることもあります。

 

もし自分が文句など恐れず、自分の道を貫ける人だったら。

 

もっと積極的に行ける人だったら。勇気のある人間だったら。。。

 

なんていつも思っています。

 

そういうことができる周りのエリートたちをうらやましくいつも見ています。

 

さて、それでも亀のごとくちょっとずつは前進している気がします。

 

 

そんな折、ある程度大人になって気が付いたのですが、全部の「文句」を怖がっていてはキリがなく、その中には取るに足らないものもあるという話です。

 

 

文句を言う人の話

 

 

世の中にはいつも何かしら文句をつける人がいます

文句を言うにもいろいろなタイプの人がいるわけです。

 

  1. 文句をつけて自分が優位に立たない時が済まない人
  2. 文句を言うことが正しいことだと本気で信じている人
  3. ただ、攻撃的で自己中心的な人
  4. 本当にこちらのことを思って言ってくれている人
  5. Etc etc…

 

とまぁ、細かく見ていけばキリがありませんが、いろいろいる訳です。

 

ここでは文句と表現していますが、

指摘

苦言

批判

注意

様々な物を包含しています。

 

それぞれ、ニュアンスが微妙に違いますが、ここではマルっとひとくくりにします。

基本的にこれらの点が総合的にビビる心を掻き立てるので、違いについてはここでは細かく論じません。

 

さて、全部の文句を相手にしていると本当にキリがありません。

 

 

中にはわざと乱してやろうするような足を引っ張る文句も存在します。

 

もう一つの問題は文句を言われることを恐れて自分を抑えるのは正解か?という点があります。

 

ちょっとでも文句を言われるのが怖くてあんまり自分を出せなかったというか、自分を押し込める方が精神的には楽な道なので抑え込んでいました。

 

どっちの方が精神的に楽かは人によって分かれれると思いますが、個人的には自分を抑えたほうが楽だったのでそういう方向を選んできたわけです。

 

ですが、社会人としてキャリアを積むにあたり、こうしていてはらちが明かない場面に数多く直面しました。

 

あっちを塞げばこっちが漏れるとでもいうのか、とかく関わる人たち全員が満足できる場面でない時が数多くあります。

 

直接関係ないのに外から文句だけ言う人もいれば、結局なにかしら不満が生まれることが避けられない場合にあれは嫌だこれも嫌だとごねる人もいます。

 

これは個人的な感覚ですが、

すぐ文句を言う人に限って別に具体的な話があることはありません。

なんとかして自分の思い通りにしてよ!ぐらいのものです。

 

 

まぁ、極端な話、何かをすれば必ずどっかから文句が生まれる訳です。

 

ごね得という言葉はこういう場面の為にあるかもしれません。

誰よりも先に何かしら要求する。

 

これの持つ効果は侮れません。

 

それはさておき、何をやってもどこかから文句を言われることは生きている以上避けられないことなんじゃないかとすら思っています。

 

まぁそういうものです。

世の中は様々な矛盾に満ち溢れているわけです。

 

 

勉強すれば誰かが運動しろといい、運動すれば他の誰かが勉強しろという。

 

上司に従えば、自分で考えろと言われ、自分で考えて突き通せば上司の意見を聞けと言われる。

 

収入を上げればお金が全てじゃないといい、収入がなければお金がないせいだという。

 

ポジティブに捉えるならば、矛盾と表現するよりはバランスと表現すべきかもしれませんね。

 

いろいろな人がいろいろな場面でいろいろなことを言います。

 

 

なので、発想の転換をしてしまえばいいという話です。

 

文句を言われないようにしようというのも無駄な完璧主義です。

もちろん、文句を言わせないほどに圧倒的であることが気持ちいいこともありますし、それが価値を生む場合もあります。

 

ですが、現実はそうはいきません。

 

いかなるスポーツ界のレジェンドにも一定のアンチ層がいるように。

 

あれだけの実績を残したイチローですら批判が飛び交う世界です。

 

ネット等の匿名性の高い場合では攻撃性が増してひたすらに攻撃的な文句を受ける場合もあります。

 

そんな中で、凡人そこのお前が文句なく物事を進めようとすること自体がおこがましいのです。

 

むしろ、文句は言われるものだと認識しておいたほうがずっと心がラクです。

 

そして、楽になることで行動ができるようになるんだったら行動したほうが得であることは多くの先人たちが指摘するところです。

 

どこからともなく湧いてくる文句にすべてをつぶされるよりも、文句ともうまく付き合いながら、もう一方で得られる称賛や評価のことも同じぐらい大切にして進んでいければいいんじゃないかって思います。

 

最善の追求をやめる必要はありませんが、文句を恐れるあまり、最善を追求できなくなることが実は最も問題です。

 

これは目に見えない損失ですが、確実に自分の時間とエネルギーを浪費する道のようです。

 

減点方式的な思考をする傾向のある日本のよくないところかもしれません。

 

文句を言われたとしても成果を積み上げて他を凌げばよいとする加点方式的な思考に切り替えることですこしはビビって手が出ない恐怖心を克服できた気がします。

 

重要なのは、誰かしら文句を言うものだから、文句を言われること=失敗とダイレクトにリンクすることはありません。

 

文句すらも自らの行動が世界に与えた影響なのです。

それぐらいに考えることができるようにようやくなってきたので、ちょっと大人になった気がします。