そこのお前の外資系勤務と与太話ブログ

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【キャリア】外資系企業本社で感じた労働者<=>企業側の相互期待の違い

外資系企業に勤めて感じた日本と欧州の「働く」という認識の違いの話をします。

 

始めに断っておきますが、このスタイル、どっちが悪いとか欧州は進んでいて素晴らしい!なんて主張ではありません。

 

あくまで淡々と違いを述べるとともに、不自然なところは不自然であると表現しているだけです。

 

そこのお前が外資系企業欧州本社での勤務で痛感させられた労働者としての会社に所属スタイルの違いです。

 

外資系企業本社では日本支社とすら全く異なる認識でした。

 

ちなみにテーマである、

労働者(部下)が企業(経営層・上司)に期待する度合

企業(経営層・上司)が労働者(部下)に期待する度合

 

これが欧米ではかなりの確率で一致しています。

 

逆に日本はかなりずれが生じていると感じます。

 

この違いを便宜上2種類に分けます。(名称はわかりやすくつけた呼称です。)

 

御恩&奉公モデル

 

資本&労働モデル

 

今日の会社における労働体系は基本的には後者を想定して構築されています。

 

ただ、現代はもはや経営層ですら資本側でない場合もありますし、会社自体も株主または資本提供者にコントロールされる存在の場合もあります。

 

実はこれがどうしても日本人が美徳としてきた御恩&奉公型のモデルにはなじまないようにできています。

 

これらの2つのモデルは似ているようで本質的には大きく違います。

 

どちらも上下関係ないしは主従関係が出来上がるわけですが、その上下の理屈は全く持って異なります。

 

御恩と奉公モデル

 

このモデルでは、主人に忠義を尽くす代わりにその忠義に恩賞が出ます。

この忠義はある時は主人に貢献する成果、ある時は主人を援ける働きを指します。

人生の全てにおいて主人のために行動する忠義が必要とします。

 

これはお金儲けの場合もあれば、競争相手のこき下ろしかもしれません。

接待・お世話のような付き人の場合もあります。

武士の時代であれば、主人の敵を倒すことかもしれません。

 

とにかく、客観的な理屈ではありません。

まずは主人がいいと判断するかよくないと判断するか。という非常に主観的で可変的・曖昧な基準です。

上に立つものの価値観を絶対とし、人間としてまるごと奉公を要求します。

 

同時に恩も客観的な基準とはかけ離れた内容になりえます。

どんなに客観的に悪事を働いても主人が絶対に守る場合もあれば、どんなに客観的に素晴らしい成果を出しても恩が少ない場合もあります。

 

物理的な恩に限らず、忠誠心だけでみんなが付いてくるようなカリスマもありえます。

あるいは主人に最も近い要職などの立場かもしれません。

 

とにかく自分以外の何か(主人や集団全体)に尽くすことで報酬を得るシステムです。

恩賞の形態も様々で、よい立場の場合もあればお金、土地、食べ物、女性、地位、何でもありです。

 

理想的な関係であれば、人生をかけるつもりで忠義を尽くします。その代わり、忠義がある以上は徹底的に恩を与えます。

現代でいえば上司であり、経営層であり、会社です。

もしかしたら日本社会全体かもしれないですね。

 

このモデルは排他的で永続的であることを原則であり理想とします。

(※もちろん裏切りはありますし、途中で縁が切れることもありますが。)

 

基本的には多くの日系企業が敷いてきた年功序列賃金制度と手厚い退職金や企業年金、福利厚生がそれを表現していたわけです。

 

厳密な御恩と奉公の定義とはやや違いますが、長期間の安定を保証するのと引き換えに従業員も企業に対して全力を尽くすことを要求します。

 

 

資本と労働モデル

対して、資本と労働のモデルは非常にシンプルです。

 

仕事に応じて報酬を出すから、その分働け。

 

これだけ。

それ以上でも以下でもないです。

 

人間的関係性は非常に希薄であり、せいぜい反乱起こされない程度であれという認識といっても過言ではありません。

必要な労働の提供がされる以外は何をしようが関係ありません。

だからこそ、欧米の労働者はプライベートの時間をしっかり確保します。

 

資本家や経営層は労働の対価以上は他人のことを守りませんし、労働者層も労働することに見合わないと思ったら離れていきます。

 

労働者は労働者、資本家は資本家という固い身分制度ももちろん存在します。

 

こういった階級制度はどの社会でも歴史的に存在してきましたし、今でも存在していますが、非常に流動的になりました。

 

「お金」という非常に客観的にわかりやすい比較可能な尺度にすべてを委ねることでいつでも身分が逆転しうる状況が一般的になりました。

 

そして、欧米は現代においてどこよりも早く客観的で明確なモデルに発展させ、同時に再現可能で汎用性のある形にして世界中に拡大してきました。

 

報酬もできるだけ客観的でわかりやすく、比較可能な状態にしました。

 

報酬の条件となる労働の内容も可能な限り明確にすることを目指しました。

 

これを「給料」と「職務定義」という存在が担います。

 

すると労働者側にも選択肢が生まれ、自律的な行動がしやすくなります。

報酬と自分の提供できる労働の比較において労働者がそれぞれが優位な仕事を選択できるわけです。

労働者側にとっても選択肢の比較検討が容易になり、個人の自律性を付与することになりました。

 

が、同時に労働者は商品となりました。

 

今や、資本家や経営者にとっては機械や建物、サービスと大差ない「商品」です。

会社という巨大なマシンの1パーツです。

 

高い技術があれば争奪戦も起こりうるし、つく値段も高くなります。

 

一撃でものすごい出力をたたき出すパーツもあれば、非常に補助的だが、数多く必要とするパーツもある。

 

それぞれの希少価値や効果に応じて値段が変わります。

 

これが市場原理です。

 

これらの二つのモデルの違いを感じていただけましたでしょうか。

 

今日の日本はどうでしょう。

まだまだ両方が求められます。

 

特にまだ基盤の弱い中小企業や閉鎖的な環境における会社では特に顕著な傾向です。

家族経営の企業や一蓮托生のの手段が構成する企業なんかはこうかもしれません。

ですが、時代は変わりました。

 

特に若い世代はそうですが、労働者側ではすでにマインドが欧米型に移行しています。

労働者が企業に期待するのは労働に見合った報酬であり、報酬以上の労働を要求しないこと。

(※一部には労働に見合う以上の要求をする労働者もいますが、それはシステムの違いというよりは単なるわがままです。)

 

だた、少し年上のベテラン世代など年上にいけばいくほど事情が異なります。

彼らは御恩と奉公モデルを徹底的に叩き込まれてきました。

 

どんな理不尽なことがあっても、上司や会社に忠義を尽くすことが人間としてのあるべき姿だと教え込まれてきました。

それによって、自らの身分も守られると信じ込まされてきました。

 

そんな世代が今は多くの企業でベテランとして要所にいる割合が多いわけですが、彼らは当時自分がやったように奉公を要求します。

 

切り詰められた給料で、リストラだってする世の中で、グローバル化した先の保証がない世界で、まだまだ主観的な奉公を求めます。

 

ですが、すでに会社という制度はそのようにはできていません。

 

すでに終身雇用制度や年功序列昇進システム、成果にかかわらず上昇する基礎賃金、その他、各種お金以外の手厚い福利厚生はどんどん居場所をなくしています。

 

人事や組織体制、ビジネス関係においても透明性や適法性が求められるようになり、絶対的な奉公に対する排他的な恩を得ることが難しくなってきました。

こうなると、会社が提供する報酬はあくまで労働の対価だけです。

 

それすらも、日本人の総合平均年収は下がる傾向がつい最近まで続いていたわけです。

 

それでも、その体系の中に忠誠心も同時に求め続ける会社や企業が存在します。

 

資本と労働モデルではなく資本と労働・奉公モデルとでも呼ぶのでしょうか。

 

この2つの提供を求められる若い世代は困惑します。

 

労働分の報酬しか出ないのになぜ余計な負荷をかけられなければならないのかと。

 

どうせ尽くしたっていいことがないくせによくいけしゃあしゃあと組織に尽くせと言えるものだと。

 

目線と認識が連れているのです。

 

欧州はそんなことはありません。

 

資本家は儲けることを狙います。

 

経営層はいかにして成果を上げるかに注力します。

 

労働者はあくまで要求した仕事をこなすかこなさないか。

 

労働者を使う側はそのために対価を支払うか支払わないかです。

 

労働者も同じ目線です。

 

いかにして要求された成果を出し、正当な対価をもらうか。

要求以上の仕事はしないし、要求が大きくなればより多い対価も要求します。

長期的にというよりはこれにはこれ!あれにはあれ!ときちんと区分けします。

 

非常にシンプルです。

 

同時に、労働者自身も市場原理の傘の中にある商品であることを意識しています。

 

ですが、日本企業がこれに舵を切ったならば、奉公の部分は切り捨てなければならないはずです。

あるいは金額や報酬として定量化し、提供しなければなりません。

 

にもかかわらず、まだ奉公も要求する企業には労働者を無視した自分勝手さが残るわけです。

これは外資系企業の日本支社ですらも若干ですがその香りが残る場合もあります。

 

何か合理性を超えて誰かに尽くすのは素晴らしいこともあります。

 

それこそがドラマだったりしますが、全員が全員それに賭けられるほど甘い世の中ではないと言えます。

 

逆に労働は労働として割り切って、自分自身の生活を充実させる方が意味があるというのは合理的な判断です。

 

自分自身を労働市場における商品と認識すると同時に、その商品価値を向上させるための努力は会社に依存しない形で考える続ける必要があります。

 

ある意味、日本の御恩と奉公モデルよりも厳しい道な時もありますが、自分で決定し、自分で道を開く。この自己決定こそが充実得るために必要な物だったりします。

 

どちらがいい悪いではありませんが、会社の持つ仕組みと中で要求されるマインドの違いには敏感になってもいいかもしれませんね。

 

ちなみにそこのお前は、労働市場における「商品」となったとしても自分で決定し、道を作っていく方が好きですが、同時に会社にいる以上は会社のために全力を尽くし、それに伴う恩でも報酬でも得ることができればいいなぁと思いながら働いています。

 

あくまで、スタイルや好みの違いではありますが、両方要求することは労働者でも経営層でも筋が通りませんね。。。

 

んでは~