職場の人とのシンクロ率をいかに上げるかって話
ご存知の通り、そこのお前は人見知りで臆病です。
そんなわけで初対面の人との関係づくりやスムーズで心理的障壁のないコミュニケーションができるまでにクソ時間がかかります。
新人でもあるまいにいい加減慣れろやって自分でも思うんですが、どうも人よりも比較的劣る分野のようです。
そういうのお構いなしでイケるベテランの営業さんなんかは本当にすごいなぁと感動します。
そこのお前の仕事は前後のプロセスとの協働や様々な関連チームとの調整の上に成り立ちますので、きちんとしたコミュニケーションが欠かせません。
これをないがしろにすると、思わぬところで手痛いしっぺ返しを食らうことになります。
そのため、そこのお前にとっては心の壁を破ってきちんとしたコミュニケーションリンクを作れるかがいつも最大の壁なんです。
要は、関わる人とどうやってシンクロ率を上げるか?っていう話
どうしても、ほかの人に比べてシンクロ率を上げるのに時間がかかるので、そこのお前は飲み会やランチタイムを積極的に活用していました。
幸いなことに日本人としては比較的胃袋とお酒が強い遺伝子に生まれたので、食事と飲みの席自体は苦ではありませんでした。
そういう場でいろいろ積極的に話をしてもらったり、こちらの話に反応してもらうことで何を考えているんだろう?とか抑えるべきツボがどこだろう?というのが普段の仕事モードの鎧をまとっているときよりも格段にわかりやすくなるので、すごく頼りになる手段でした。
なので、飲みの席は何があっても断らないようにしています。
特に、そこのお前のように普段の生活の中だけでは多くを理解したり、察しきれない人にとってはかなりハードルを下げてくれる手段だと思います。
たまたまお酒が介在しますが、コミュニケーションをとるという意味では非常にハードルが低くなるタイミングだと言えます。
これ、多くの人にとっては普通で当たり前のことだと思うんです。
もちろんお酒や飲み会が嫌いな人もいますし、そういう場をなかなか持てない環境もあり得ます。
とりあえず、今日は飲み会自体の是非については語りません。というよりも結果的にシンクロ率を上げることを拒否してしまっている事例について考えてみたいと思います。
飲み会をまつわる社内の不思議な話
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飲み会には一切参加しなかった社員がいた。
当然、最初は全員がそういう会には声をかけた。
会社の飲み会もあれば、チーム・仲間内で行く飲み会もあった。
あって月一程度の頻度で、行きたい人は参加するといったようなものだった。
その社員はことごとく不参加だったので、だんだん声をかける人数は減っていった。
飲み会以外にも昼ご飯やちょっとした休憩も誰かの誘いに乗ることはなかった。
外資系企業なので、日系企業と違ってそういうスタイルの人は割といたし、周囲もそういうものだと特に構わず受け止めていた。
ただ数人趣味の合う同僚がいたようで、その人たちを中心に時たま盛り上がっていることはあった。
その社員はどうもその人たちとかかわる仕事だけは積極的に取り組んでいたようだが、それ以外は期待された成果を上げるに至らなかった。
だが、ある日、その人の評価を巡って上司・人事・本人と少しもめたようだ。
主題はその人の評価が思わしくなかったことについてなのだが、
本人の言い分はこうである。
- 飲み会によく参加する人間が評価について優遇されていると“感じる”。
- 成果が上がらないのは上司が自分のことを“理解”しないからである。
- 上司の業務指示が“的確”でなく、説明が“不足”していたからだ。
これがもしすべて客観的に認定できる場合、上司がその能力を疑われる。
だが、この件のトラブルなところは全部、社員の主観が入り込みすぎていて、判別不可能だ。
上司が非常に正直で合理的な方だったので、その場では以下の説明がなされた。
・飲み会に参加する回数や態度を以って評価を決めたことはないが、飲み会やその他の場でコミュニケーションの量を稼げたことはお互いの思考や目線の“理解”につながった。
・理解が深まり、結果的に様々な話を重ねる過程で、新しいアイデアが浮かんだり、より細かい相談と議論を行うなど、信頼度合いが高まり、上司として目算を立てやすくなり、仕事の依頼をしやすくなった。
・その社員のことも意図的に仲間外しをしたことはないし、理解のためにコミュニケーションを試みることを諦めたことはなかったが、深い理解に至ったかというとまだそれには質・量ともに足りていない。
・ただし、その社員の方から上司を理解する努力があったかについては不明であり、特別にその社員だけに別に業務中の時間を割くというのは逆に不公平となることから、実施しなかった。
・業務指示もどこまで理解していて、何を言わなければならないのかを少ない回数で100%の精度で行えた自信はない。だが、結果的に不足部分があったとしてもそれを今になって指摘するのは後出しであり、一方的に上司側のみの責任とすることは到底受け入れられない。
すでに双方の言い分を聞いていた人事としては大勢は決したと感じていた。
説明を聞いて、やや苦し紛れにもその社員は言った。
というよりも、どうやら最初から根底にあった不満が漏れ出たようだった。
飲み会は生産性がなく、業務でもない不要なものです。
だから、飲み会等を廃止する、ないしは、純粋に仕事のみの関係ですべてを決めるべきで、飲み会における人間関係の構築とそれ活用した業務上の利益の享受は卑怯で不公平です。
と
上司は少しの間答えに窮するも、考えたうえで慎重にこう話した。
全体を無視して自分だけが有利になるルールを勝手に作らないでくれ。
飲み会に参加しないのは自由だが、飲み会に参加するのも自由だ。
ほかのメンバーにも想いや悩みがあり、仕事で困っていることがある。
バカ話をして笑いあうこともある。
それらを話すことだけでは直接的には何も生まないかもしれないが、それでも何を考えているのか、どういう気持ちなのか。今の仕事はどうなのか。
それらの機微が少しわかるだけでも上司としては日々の仕事にものすごく活きる。
彼らもそれを周囲と話をすることで行き詰まりを打破できることがあるようだ。
さらに、コミュニケーションの量と質が上がり、積み重なるごとに、協働効率が良くなる。
働き方改革や効率重視の取り組みの余波でそういった感情的な部分や定量化された成果に直結はしない間接的部分を業務の時間に充てることは控えるべきという雰囲気になってきた。
だけど、彼らはお金を払ってもそういう場にいることに何らかの意義を見出しているし、彼らはその時間を使ってもいい仕事をしたいと思っている。
だから私は飲み会はやればいいと思うし、あなたにも声をかける。
ただ参加するかどうかは自由である。
義務や業務ではないが、自らの仕事を輝かせるための一つの手段だ。
あなたの自由でその手段を放棄するならば、違う手段を使って補うしかない。
それができないのであれば、自分でそのツケを払うべきだ。
彼らは飲み会に参加しながら、そこでの刺激を有効活用して見事に成果につなげてみせた。決して飲み会に参加したから有利な状況になったわけではない。
その他にも同様の効果を得る方法はあったし、それはあなたにもできることだ。
「自由」を盾に好きに行動するのは構わないが、ほかの人の自由を妨げることはできない。そして、あなたの自由に干渉できるルールはないが、評価ルールに干渉できるあなたの自由もない。
あなたの自由の結果、発生する結果であることを認識するべきだ。
個人の自由な行動は理由なくして誰にも妨げられないが、ここが会社という組織であり、人が人を評価する人事制度と相対評価である以上、客観的な結果や他人からの評価に関係なく欲しい評価を得る自由が保証されることはない。
その厳格さはきちんとわきまえてほしい。
それと同時に、私はもっとあなたのことを理解したい。どういうやり方ならできるか何かやってみないか?
それができたら、きっといいことがあるはずと信じている。
このように締めた。
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さて、この話、社員同士の飲み会を巡って起きたちょっとした不和なのですが、社員が自分の好きなように行動するのはそれでいいです。
自分のやりたいように行動するのはいいですし、飲み会が嫌なら嫌で構いません。
お昼ご飯でもよければ、上司の時間を取れるようにお願いすることでもいいといえます。
上司も飲み会に来ない人間はだめであると断じているわけではありませんが、少なくともお互いの認識がかみ合っていないのは間違いありません。
事実、一人だけで仕事をする状況を除いて、どの職場・チームにおいても上司・同僚・部下とのコミュニケーションの質が高くシンクロ率が高いに越したことはないと思います。
(クローンやコピーになれということではないです。人はそれぞれ違うことを知り、お互いを認識する精度を高めることです!)
そこに飲み会が有効に活用されているのであれば役立てていけばいいと思いますし、飲み会に限らず、いかにしてコミュニケーションにおける意思疎通の精度を上げることができるかって非常にカギになると思うんです。
ワークライフバランスや公私分離の考え方が主流ですが、それは何もそうじゃない生き方を選択した人を制限するような意味ではないと思いますし、仕事をする人と人間関係を構築することが問題であるという趣旨ではありません。
飲み会でもなんでも一緒に働く人のことを良く知っていい関係を保つっていい文化だと思いませんか?
欧米も個人主義とは言いますが、必要な人間関係の整備をきちんと行う事の必要性は非常に重きを置いています。
プライベートを優先したり、自分の好きな人との仕事だけで燃えるのはいいですが、結局、必要とされる成果がでない場合に都合の悪い評価を受けない権利まではありません。
今回みたいな自分が干渉されない権利・自由と上司の職務・義務を都合よく拡大解釈しすぎて、余計な接触はしたくないし、他人のことは理解しないけど、自分のことはきちんと正確に理解し尊重してほしいみたいな自分本位で一方的な要求をしても得られる現実的なメリットってちょっともなくないですか?
No give but take everythingみたいな。
行くのも自由、行かないのも自由、その上でなすべきことに対して全力で取り組めていればいいですけど、そこの部分は棚に上げてマイルールを生み出すこと自分のできない・やりたくないことは他人もなしにして、引きずりおろしたがる個人総取りシステムみたいな主張はやはり通らないですね。
少なくとも上のエピソードでは上司が最後に救いの手を差し伸べて会議を終えるわけですが、職場での関連する人とのシンクロ率をどう上げるか?において飲み会って割とありふれた便利なものだと思うんです。
チームや組織が大きければ大きいほど難しくなってきますが、飲み会でも日々の仕事でもいかにお互いの理解精度を高めて、シンクロ率を向上させて、味方である安心感を獲得できるかが重要だと思うんですが、個人の権利をギンギンに主張しすぎるとかえってそういう大切な現実的利益を失うことってあると思うんですよね。。。
ま、クッソ意味ない飲み会もあったりしますけどねーーーー!!!
ほいじゃ。