そこのお前の外資系勤務と与太話ブログ

凡人が行く外資系企業勤務やキャリアの与太話や裏話。緩いのと辛いのまぜまぜ。人見知りやビビりだって人生案外イケるじゃんって思ってもらうための与太話。毎週月曜・水曜・土曜日更新予定

【キャリア】貰った分の給料の仕事しかしないという危うい発想【収入】

報酬分の労働しかしない。という考え方の危険性

論理的には正しいです。

報酬をもらえる以上の仕事をする義務などありません。

 

ですが、この主張、文脈的にはこれぐらいのお金しかもらえないんだったらこれぐらいの仕事しかしねぇや!

なんてふてる場面とかで使われることはあると思います。

まぁ冗談めいて言っている分には構いません。

 

ただ、中には本気で主張する人がいるので不思議に思う

 

被雇用者であるサラリーマンがこの考え方に依拠するには長期的に非常に高いリスクが伴うと思うんです。

それどころか、ちょっと貧しい発想になってしまっているんじゃないかと。

 

残念ながら、この考え方が通用するようにサラリーマンの世の中はできていない

 

この考えが成立するのは仕事と報酬が1ミリのずれもなく完璧に比例し、変わらない状況でしかありえません。

結局それができないからこそ今は様々な給与体系が制度として整備されているわけです。

 

年功序列賃金

成果主義

 

両方で整合性が付かない場面が出てます。

 

個人レベルで見ると労働者としての競争力の放棄に等しい

 

そもそもこの考え方自体は、仕事に見合った報酬はいただく!というどちらかというと歩合制やフリーランサーに近い考え方だと言えます。

この仕事に対していくらで受けます。

とか、

この仕事にはいくら出します。

などというより具体的で細かい取り決めをするやり方です。

彼らも値段設定には幅がありますし、良心的な価格からぼったくりまでさまざまあります。

が、比較的何に対してお金を払うか?というリンクができている領域だとは思います。

 

なので、そこで報酬に応じた仕事をするという考え方は非常に正しいと言えます。

 

しかし、それをサラリーマンとして働く側がモットーとして掲げると逆転現象が起きます。

給料を出す側が仕事当たりの給料を定義するのではなく、雇われる側が給料あたりの仕事を定義することになります。

 

果たして日本のサラリーマンという職種で現実問題それが可能だろうか。

 

賃上げ交渉の戦略としてわざと仕事のレベルを落とし、交渉するというやり方はありますが、組織的にやらない限りは成功しません。

1人でやったら独占的な仕事でない限り、単に競争力が落ちて終わるだけです。

 

もっとくれたらこの仕事をする!という構図であれば何かと刺激を生み出せますが、勝手に定義した「くれるぶんだけしかやらない!」では何も生まれません。

 

サラリーマンはこの仕事に対していくらなどと細かく定められるほど役割が固定されていないことも多い職業です。

 

新卒者や管理職はなおのことです。

 

定量化可能で金銭換算可能な仕事で100%構成されているとはいいがたいわけですし、自らの仕事がどれぐらいの成果に貢献しているかを完璧に算定することも簡単ではありません。

 

結局のところ、もらった分の給料しか仕事をしないといっても、その仕事が何を表すかを明確に定義できるケースがないのです。

 

加えて、経済がインフレ・デフレするように給料だってその業種・業態・希少性で増減します。

そして、同じように仕事をしていても、給料は国によって違うし、地域によっても違います。

 

仕事で求められるレベルが不変であるとは限りません。

時代や経営方針と共に仕事のレベルは変動します。

 

ある時は新しい技術に対応しなければならない

 

昔と同じ仕事で済まされる仕事はどれぐらいあったでしょうか?

事務仕事を例にとると、昔と違ってパソコンは使えなければなりません。

エクセルやワード、その他のシステムもきちんと使えることが求められる人が優先的に雇われる場合もあります。

 

これからはAIやRPAの技能が必須になるかもしれません。

責任範囲におけるイレギュラーな仕事が降ってくる場合もあります。

 

常に変動する世の中で、個人で完結する独立した仕事をしていない以上、「もらう報酬に相当する仕事」を労働者側が定義することは非常に難しいと言えます。

 

この考えだと「もらう報酬に見合った仕事は必ずする」という話と同義なわけですが、給料を上げればそれに伴う仕事ができるでしょうか。

 

逆にちょっと成果が落ちた場合、給料の減少を甘んじて受け入れることができるでしょうか。

 

おそらくそうではないんじゃないかと思います。

 

だからこそ既存の給与体制はパフォーマンスにかかわらずある程度安定的な部分をベースとして報酬に組み込んでいるわけです。

 

年功序列賃金にこの考え方を当てはめてみる

 

年功序列は年齢と共にもらえる金額が増えていくという仕組みです。

今は破たんし、既得権益を手放せない人たちが若手よりも多くの給料を得るレガシーシステムと化していますが、さて、もらった分の仕事と給料に比例している人はどれだけいるでしょうか。

 

年を経て、賃金が上がれば上がるほど若い人間に比べて圧倒的なパフォーマンスを残さなければならないわけです。

若手や下の世代のエースに下克上されるなどもってのほか。

そんなことでは給料分の仕事ができていないという話になります。

 

あるいは逆に若手の時は大した仕事をしなくていいということになります。

 

果たしてこれは本当に可能でしょうか。

 

そんなことを気にするよりもできる事を増やし、もっと報酬がもらえる仕事をするという考え方にスイッチしなければ淘汰されゆく存在になってしまいます。

 

それでごまかせるのはシニア世代が役職定年や定年後の再雇用にて給料が激減した時ぐらいでしょうか。

逃げ切ればいいわけですし、会社側から何を言われてもあと数年であり、失う給料も将来のキャリアもないわけです。

 

それ以外に人でその場で淘汰されても構わない人がこの戦略を取る分には構いませんが、極めて限定的かと思います。

 

今後はそれすらも許されないかもしれない

 

日本のシニア世代の社会保障状況の観点からは長い時間を労働に費やすことを余儀なくされ始めている。

逃げ切ろうと思ったらゴールラインが先延びし、その分を凌ぐ必要な備えが足りてなかったなんてことも起こるわけです。

 

むしろ給料に対する仕事としか考えてこなかった人は昨今流行の早期退職やらリストラやらでバンバン追い出される対象にピックアップされるリスクを高めます。

(※給料分すら仕事ができていない人もいますが。。。要はできる人を優先的に残す会社のダイエットで振り落とされてしまう訳です。)

 

 

逆に成果主義の場合にもこの考えは当てはまりません。

 

なぜなら、もらった給料に合わせた仕事というよりは給料を得るために仕事をしなければなりません。

貰った分の仕事=自分の仕事であり、それは会社側が成果とそれに対応する報酬を定義するため、この考えは根本的に当てはまりません。

 

貰った分ではなく仕事した分が先に来るので、労働者が定義することは不可能です。

むしろ成果主義という会社が定義した制度に操られる制度的限界があります。

 

いずれにしてもサラリーマンが給料分の仕事量を先に決めて仕事を一人で始めた場合、待っている結果が明るいとはいいがたいわけです。

しっかりとしたムーブメントで労働者全体でやるならばいいですが、感情的になってそうすることに未来はありません。

 

結局、時代や競争相手、必要なスキル・能力の変化に対応できない

 

若手が勢いよく下剋上を狙う層が一定数いる以上、ますます自分自身が向上しなければ給料を得るための強さを保てなくなります。

その場ではいいかもしれませんが、長期的な戦略として「もらった分しか仕事をしない」というサラリーマン戦略を採るにはちょっと自滅っぽいルートだと思うわけです。

 

だからこそ、若い世代でキャリアに先がある人はぜひ給料以上の仕事をする意味がある環境を選び、決して腐ってもらった分の給料しか仕事しないというダークサイドに落ちないようにしてください。。。

 

そうおもうわけです。

いくら年上の人がこんなことを言っていたからって染まる必要はありません。