叱る技術も難しいが、褒める技術を身に着けるのはもっと難しい話
褒め上手はモテると昔からよく言われてきました。
それは男でも女でも変わりません。
人は褒めてもらうことで喜びを感じ、自分自身の考え方・行動に刺激や影響を受けるのです。
この褒めるスキルが非常に高い人は社会的に人望や信頼を大いに獲得できると皆が思うところです。
大げさすぎず、控えめすぎず適度な範囲でしかも相手が褒めてほしい部分をピンポイントで打ち抜く。
そこのお前は、上手に褒めることができる人をいつもうらやましいと思っていました。
そもそも褒めるって何なのか。
正直そこのお前は褒めるのが苦手です。
即ち、モテないということです泣
褒める技術がそもそも高くないのと同時にどうも人の褒めてほしいところを見抜くセンスがありません。
誰しも行動の中に褒めてほしい部分や褒められるに値すると自己認識する部分は存在します。
それを把握してあげるのが得意じゃないんです。
いまいち鈍感だったり、褒めればいいのに照れちゃったり、恥ずかしがったりするわけです。
褒める側が恥ずかしくなってどうする?って話ですよね。
それと同時に、昔からそうなんですが、褒める褒めないにかかわらず、昔からあんまり普通の人と感覚が一致しません。
そのため、どこに行ってもみんなから不思議がられます。
うまく周囲と波長を合わせる能力を獲得できればよかったなぁと思いますが、それができずにここまで来てしまいました。
まぁ要はあんまり世間一般と同じ感覚を持っているとはいいがたいわけです。
なので、どこを褒めたら相手が喜ぶのか?とか何を言ったら相手が喜ぶのか?という点でいまいちシンクロ率が上がらないわけです。
逆に人のことをけなしたり指摘したりするのは簡単
なぜなら、怒ってほしいところっていうのはあまり存在しないわけです。
なので、基本的に変なところやおかしいところを少しでも見つければいいだけです。
相手がどう感じようが、淡々と相手の弱点を突き続けるだけです。
目につくところ片っ端から攻撃していくことは割と人間簡単にできます。
常に上には上がいるので、適当なトップレベルの人を引き合いに出して批判するのも簡単です。
ちょっとした矛盾や粗を探せばいくらでも出てくるわけです。
そこのお前は昔からよく怒られて育ったわけですが、まぁ自分が怒られたように相手に指摘を食らわせればいいだけです。
手札の数は割と豊富です。
なんて嫌な奴なんでしょう。
ただ、ひたすらに相手を攻撃することは今日では有効な行動とはますますかけ離れるようになってきました。
褒められたい人は多くても、怒られたい人はすくない
わざと悪いことをして注目を引くなんて行動も見られますが、怒られることと褒められることを比較して怒られる方が好きという人は人生経験の中でほとんど見たことがありません。
特に年が上になればなるほど人から怒られることに抵抗感が増していくものです。
きちんと叱り、いい人間関係を築くことができればいいですが、基本的に怒ったり叱ったりする人にすり寄っていくケースは多数派ではありません。
が、それでも叱ったほうが結果的に良い場面は存在しますし、それをきちんと良好な関係の中で実行するには別の技術を必要とします。
が、人のことを褒めたり、称賛したりすることは叱る技術よりも格段に難しいと個人的には感じています。
褒めることが難しい理由
実は怒ったり、指摘したりすることに比べて決定的に違う部分があります。
褒める効果は褒められる側の認識で大きく変わります。
褒められてうれしい褒めと嬉しくない褒めがある
実は心理学的には自己肯定感の低い人は褒められても困ってしまったり、自分の中でないマイナスに変換してしまうという恐ろしい作用を持っていることがわかっています。
要は自分自身の存在や行動に価値がないと思っている人にとっては褒め言葉がもたらすイメージと実際の自己認識の違いに苦しむということです。
さらに言えば、自分で自信の低い分野や意識していない部分について自己認識以上に褒められてしまう事でも同様の効果を持ちます。
同時に、格下と認識している人から褒める言葉をもらってもあまり喜びが喚起されないという事実も見逃せません。
つまり、褒めるにしても、相手が自分から褒められてうれしい部分が何かという事を積極的に把握しなければならないのです。
それができてこそ褒める効果がきちんと本来の効果を発揮するのです。
キモオヤジに容姿を褒められたらセクハラにされかねませんし、自分が嫉妬する相手から嫉妬している部分を褒められても嫌味にしか聞こえません。
とにかくただ褒めるという事に縛られると実は痛い目を見ます。
意味のある褒めでなければ人は褒めとは受け取らない。
全然重視していないことや自己認識と違うことを褒めても人は喜ばないわけです。
なんなら質の低いお世辞と取られて終わりです。
質の低いお世辞はむしろ悪影響をもたらします。
褒めてばかりでも意味がない。
何でも褒めてくれるよね!とか言われ始めるともはや褒める言葉は効果を失います。
アメとムチとはよく言ったものです。
アメにもムチにもきちんと愛や思いやり、相手への理解が必要なわけです。
要は褒めることで相手に愛や尊敬を表現し、それが狙い通り伝わるには本当にこまやかな心遣いがいるという話です。
この点がきちんとできるかどうかは今後の人格の成熟に大きな影響を及ぼすと思っています。
褒める技術的に身につけようと思った場合、以下の行動が必要
- 自分と全く異なる人たちとのコミュニケーション経験
- 感情心理学の理解
- 自己表現力の研鑽
- 観察力・共感力の向上
褒める引き出しの幅を広げるにはこの4点を意識することで、後天的に能力を補強することは可能です。
この点、結構意識しない人は多いんじゃないかと思います。
一般的な傾向としては女性の方がこういった効果的に褒めることが求められる場面での取り扱いに長けていると言われます。
コミュニケーションスタイルは男性の方が少し競争心や批判心に基づく攻撃性が旺盛であることは一般的な傾向として出ています。
同時に共感力や表現力を背景に、褒める技術はかなり女性の方が複雑で高度な処理ができる事は脳科学的に差が出ているとする学説もあるようです。
典型的男社会で生きてきたそこのお前にとっては少し高いハードルが目の前に横たわっています。
褒める技術
簡単なように見て難しいですが、営業でも管理職でも恋愛でも育児でも様々な場面で効果を発揮してくれます。
見過ごすには少し惜しいテクニックですよね。
そこのお前、上記4点に気を付けてからはかなり気持ちが楽になりました。
特に相手をよく見ておく、把握しておくということは本当に役に立ちました。
この褒める技術、実は対上司で実践してみたのです。
これがかなり効果てきめんでした。
ともすればおべんちゃら、ごますりと言われかねませんが、そこのお前のポリシー上、お世辞は言わないようにしています。
それどころか、日系企業では即邪険にされるんじゃないかってぐらい上司に指摘することもあります。
が、それでも褒める技術をちょっとずつ磨くことで少しは悪影響を和らげてくれたかなぁと思います。
新卒1年目の時にはまだ社会人としての常識がわからず、ツボをハズすことも度々ありましたが、徐々に波長が合っていくと本当に大きな効果をもたらしてくれました。
上司を褒めると上司からも褒めが返ってきますし、理解してくれているという安心感からなのか多数の重要な情報を先回りして出してくれます。
これによって大きなベネフィットを得ることができました。
主に支えてくれたのは褒めるところを見つける観察力
おそらく観察が最も基礎になると言えます。
相手が見えないと褒める効果の精度を上げられません。
そう思っていたので、日々の業務観察ベースで見つけた褒めるポイントをまず特定することに集中しました。
その後、褒めを表現するスキルを鍛え、徐々に質を高めていきました。
この観察力、後から感情心理学の本を読みながら振り返っても結構うまくポイントを捉えられていたと思います。
特に苦労している部分で粘っているところや上司の積極的な介入時にその意図を汲んだ感謝がかなり大きな効果を上げました。
怒ったり怒られたりするよりも格段に相手を観察しなければなりませんが、その分、ずっと大きな効果をもたらしてくれますよ。
むやみに褒めろとまでは言いませんが、褒める技術は案外人生をラクにしてくれます。
モノマネが上手い人は英語が上手くなる話
案外聞き取りにくい日本語式英語発音
なぜ日本人は日本語発音がなかなか抜けないのか。
そこのお前もある程度しゃべれるようになった今でも少し日本語っぽい発音は出てしまいますが、だいぶ抜けてきました。
自分の英語の発音が通じなくて困った経験は多くの人が持っていると思います。
首を傾げられたり、聞き返されたり。
旅先で注文しようとしたら全く通じずに困ったり、キレ返されたり。
どうしても通じなくて必要な交渉ができずに困ったり。
そこのお前もそういう経験は嫌というほど繰り返してきています。
自分の発音が上手く伝わらず、意味が分からないと呆れられたり、たどたどしいしゃべり方で伝わらなかったり。
そのたびに恥ずかしさや悔しさ、時には恐怖が混じった言い表しにくい感情に包まれます。
ぶっちゃけ、日本語的英語発音って少し聞き取りにくい
日本人の耳には最適化されているので日本人同士でしゃべる分にはお互い分かり合えるのですが、日本語を知らない人からは非常にわかりにくいものです。
が、それでも日本語っぽい発音での英語ってなくならないものです。
昔は英語の発音記号を勉強させて覚えさせるということもありましたが、目で見た記憶の発音記号では限界があります。
実はそこのお前の勤める外資系企業でもネイティブのように英語を取り扱える人はそう多くありません。
癖のあるいかにも日本語って発音をしている人も多いです。
50歳前後のベテラン世代になると昔ながらなカタカナ発音の人も数多くいます。
若い世代の方が英語に対する親和性も高く、そこそこの発音でしゃべれる人の率は高いです。
パーフェクトな発音でなくてもコミュニケーションは成立するが。。。
が、発音の微妙な違いで表現力・テンポの良さ・伝達精度の部分である程度のロスが発生していることは間違いありません。
実際、そこのお前の上司の何人かもそんなにしっかりした英語をしゃべるわけではありませんでした。
それ故に外国人のお偉いさんとのコミュニケーションに苦しんだり、伝えられなくてみすみす差し込まれている場面をよく見ました。
日本語的英語発音になる原因は主に下記2点
そもそも英語のきちんとした発音ができない(または自信がない。)
本当に日本語発音がわかりやすいものだと思い込んでいる。
この2点は該当する人は多いと思います。
発音に自信がない
このうち、自信がないというだけであれば、練習すれば自信を手にできます。
口と耳に覚えさせるために量を積む意識を持てさえすれば乗り越えられる部分です。
後述しますが、量を積むにしてもモノマネがもってこいです。
問題はもう一点の方です。
日本語発音は問題ないと思っている。
日本語発音のようにはっきりとしゃべった方がいいと思っている人、結構いるんです。
外資系企業にすら。。。笑
そこのお前が入社して間もなくして付いた上司なんかはそうでした。
実はこれ、わかりやすくしようと思って日本語発音にすると結構ドツボです。
逆に日本人以外の英語話者からはわかりにくかったりします。
ネイティブスピーカーであれば何とか意図を汲んでくれる人はいます。
が、ネイティブでない英語話者であれば伝わらない可能性はぐんと上がります。
日本語的発音がもたらす弊害
いくつかの記事で触れていますが、英語は言語です。
発音もその1要素です。
単に発音と言っても色々あります。
リズム・抑揚・緩急・音の出し方。。。などなど
実はこの部分で結構日本人と外国人は感覚が違うのです。
日本語的リズムや音の出し方をすると日本人同士では非常にわかりやすいです。
というのもお互いの耳がその通りに最適化されているため、簡単に解釈できるわけです。
が、その感覚が違うと全然違って聞こえるのです。
鶏の鳴き声が日本語では「コケコッコー」なのに、英語では「クックドゥードゥルドゥー」となるように同じ音を聞いても識別する音が大きく異なるのです。
この感覚のことを英語耳と言ったり、イントネーションと言ったりするのです。
驚くことに全く理解不能なインド訛りやイタリア訛りですらそれぞれの人にとっては最も聞き取りやすい発音なわけです。
昔のインド旅行で、専属ドライバーが「パルキン!パルキン!」って連呼しているから何のことかと思ったら「Parking(パーキング)」だったり。。。笑
そこのお前も彼らの発音に慣れるには時間を必要としました。
なんなら、今でもちょっと苦手意識があるぐらいです。
こういう癖のある英語のことを「生きた英語」なんてひと昔前は呼んでいましたが、要は一人一人英語には癖がある訳です。
教材のようにプロが完全に用意したお手本しかりの英語の真逆です。
そういった癖や特徴のことを総称して「生きた」と表現しているわけです。
世界的に見れば日本語的発音もその一つです。
Ugly(醜い・ダサい)とAgree(同意・賛成)が日本語表記だと「アグリー」で全く同じなのも、Engrishと揶揄されるのもすべては癖です。
それに、一度口や耳の癖が定着してしまうと案外変えづらいものです。
一度定着した英語の発音はなかなか変えにくいです。
東京にいるのに関西弁が抜けない人がいたり、ふとした瞬間に方言が出るのも同じ理屈なわけです。
染み付いたものを完全に抜くのは難しいです。
日本語の微調整ですらそれぐらい難しいのです。
アナウンサーもキレイは発音発声を目指してトレーニングをするように、自分のしゃべり方を変えるには声を出し、口を動かすしかないのです。
英語での発音は日本語よりも矯正が難しいです。
が、ある程度近く寄せることはできます。
発音をある程度形にするにはモノマネ力が重要
モノマネの要領でパクるのがおすすめです。
教科書ではあまりそういう教え方はされませんが、基本に忠実になることを意識するよりも、それっぽくなるように工夫するほうがかえっていい効果を得られることがあります。
特に、ひたすらモノマネをすることを意識すると案外効果があります。
よく伝わる人の言い方や発音をひたすらパクることに集中すると結構効率よく口が覚えてくれます。
ちょっとデフォルメするぐらいで極端にマネすることでちょっとずつ自分の中の限界点を拡張することができます。
頭で考えながら進めるよりも、今の似てた!似てなかった!ぐらいで判断するほうが体感上は効率が良かった気がします。
定量的なデータはありませんが、頭で考えるとどうしても日本語思考ベースで進んでしまうため、言語を介さない感覚での判断の方がより素に近い判定ができるというのが個人的な感覚です。
実際、極端なものマネを挟むと自分の出せる音の幅が広がるので、自然と日本語発音から脱却できるようになる訳です。
実は日頃から音を出す表現力を磨いてる歌手や役者の方は音をきれいに出す事ができるのです。
それは自分が出せる音の幅が広く、いろいろな出し方を知っているからと言えます。
実は英語は全くわからないけどものすごくきれいな発音で「I can’t speak English」が言えちゃって混乱を招いたりするそうです笑
それぐらい、モノマネ上手は英語発音の上達を早めます。
映画やドラマのセリフのモノマネでも身近な英語話者のモノマネでもとにかくこの人みたいな発音になりたいなって思える人のモノマネをすればいいのです。
(※そこのお前は一時期スターウォーズにドはまりしていたので、セリフを完コピするレベルまで見まくっていた時期があり、そこでかなり基礎が出来上がりました。)
正直、発音は単語の暗記や文法知識よりも習得にムラがあり、ついでに発音がいいことを揶揄する呪いも踏まえて、日本では非常に身に着けにくい技能になっています。
キレイなキレイな発音でなければならないということはありませんが、少なくとも他の人に伝わりやすいようにするにはよく伝わる人が喋るものをそのままコピーしちゃうのが一番シンプルであり、有効です。
完璧なお手本をあえて厳しく求める必要はありません。
だって言語は伝わってなんぼの世界だから、伝わりさえすればあとは誰も気にしない部分の精度なんてどうでもいいのです。
発音を習得するには実はモノマネが最も近道です。
英語の授業では物まねコンテストぐらいのレベルから入ったほうが面白かったりして笑
(※それにしてもそもそも英語をきちんとした発音で喋れない教師は今後増えていくんでしょうかね。。。そこのお前の子供のころの英語教師はそろって日本語発音でしたが。。。)
今こうしてブログを書いている理由
そこのお前がブログを継続する理由の話
そこのお前は紆余曲折を経て、ブログを書くようになりました。
最初は恐る恐る書いていたこともあるのですが、最近はようやくビビりが取れてきました。
やっぱり続けないと何ともできないものですね。
そこのお前のブログの目的
- 自分自身のストーリーになるであろう話をきちんとまとめておきたい
- 超平凡で人見知りでビビりで特に特別な経歴がなくても、日本人だって海外で普通に生きていけるよって話を伝えたい
- 自分自身の成長に意欲はあるんだけど、迷ったり悩んだりして、何かのきっかけや後押しが欲しい人の後押しになりたい
これがメインです。
自慢したいからとか、誰かから称賛を得たいとかいうことはあんまりありません。
まぁ多少はお金に変わってほしいという思いもありますし、会社外でのチャンスが広がればいいとは思っています。
が、まだそこまでのレベルには到達していません。
そこのお前のブログの前の習慣から
というのも、そもそもブログを書き始める前から日記はつけていました。
大体、大学1年生ごろからでしょうか。
この習慣を何となく続けて、すでに10年以上がたっています
自分で手帳を買ってそこに思いついたことや考えた事をひたすら書きなぐっていくということをやっていました。
それがしばらく続いた後、今度はクラウドサーバー上に保存する形でスマホ・PCにメモを書き溜めていくという形に移行しました。
それが今ではそれらを見返しながらそこのお前としてブログに移行しました。
前はあまり見せられるようなものではなかったですし、自分の書いていることもありふれたなんてことはない話ばかりでした。
それこそそこのお前として埋もれるにふさわしい話しかないわけです。
誇れるような人生でもなければバリバリ目立つ実績があるわけでもありません。
ですが、ようやく少しはまともな大人として社会を泳げているかなと自分のことを評価できる自己肯定感が身につきました。
さらに、外資系企業の欧州本社での赴任という時期を通して、いろいろ考える中で、ここらで一気にこれまでの話をなんとなく人が見れる形にしようと思って統合を進めている最中なわけです。
一番やりがいにしたいのは、誰か人に見てもらって、少しでも何かのヒントになってくれればというのが大きな部分です。
自分の仕事や人生・キャリアに真剣な人で迷っている人とかモヤモヤを抱えている人には伝えたいメッセージがあります。
逆に気に食わないなぁなんて思う人はいると思うのですが、それはよっぽど実害や問題がない限りは見逃してくださいとか思っていたりします。
どう受け取るかどうかは皆さん次第ですので、そこのお前としては精いっぱい書くということでしか貢献できません。
が、もう一個気が付いたことがあります。
過去の日記や乱文は自分で見ても何のことだかわからなくなっていく
ただただ衝動のままに書きまくっていた時期に書いたことは今でも鮮明に思い出せるものもあります。
逆に何の話だっけこれ?なんて忘れてしまってわからなくなったものもあるんです。
特に若い時に書いた文章ほどそういう傾向がある
もちろん文章力がないとか後で見返すつもりがなかったなんて部分もある訳ですが、それでも思い出せないことにもったいなさを感じたのです。
この10年、人生においては3分の1近い年月を占めますが、その中でも刻一刻と変わっていく自分自身が昔の自分を忘れてしまうことにもったいなさを感じました。
なので30年とは言いませんが、5年から10年後の自分が読んでもわかるように、5年後に読んでもわかりやすく、恥ずかしくないような文章にしておこうと思いながら書いています。
なので、自己満半分以上、残りが参考になるところだけパクっていってくださいという感じです。
そこのお前がブログを書く背景
実際、年を経るごとに人生の流れは速くなりつつあります。
それは時間を短く感じるという事ではなく、なぜかものすごい速さでいろいろなイベントが起こる時期に差し掛かっているという状況が目の前にあります。
小学校の時よりも、中学校の時よりも、高校の時よりも。
大学時代もめまぐるしかったですが、社会人になってからは若手のころよりも目に見えて回転が速くなりました。
直近3年では4回の異動を繰り返したり、昇進・プライベートイベントなど目に見えて加速しています。
すると、体験や感情が霞んでいっちゃうんです。
感情や感覚はどんどん上書きされて、当時の瑞々しさを忘れてしまいます。
まぁ要はいろんな感情的な部分が押し流され、きちんと味わい、咀嚼し、自分のものになる前に目の前から消えていってしまうのです。
だからこそ、忘れないように書いておこうと思っているわけです。
個人的には、キャリアの終わりや大きな区切りまで続けて、後で読み返してしみじみしたり、自分に再び活を入れたりと過去の自分から今の自分を刺激させるというステップにもっていきたいわけです。
そういう意図を持って書いています。
なので、ブログでお金稼いでいます!というわかりやすい誘惑に揺らぐ時もありますが、基本線は自分のため、人のために続けると心に決めているわけです。
お金の為が最初に来るとどうも後で見返す気もなくなりますし、ただの仕事になってしまうので、それは本業だけで十分なわけです。。。
自分の人生を愛すればそこに物語はできるはずなので、そういう楽しみを後の人生で得られるようなストーリーにしたいわけです。
そんな感じです。
いつも読んでくださっている方はこれからもお付き合いのほどよろしくお願いいたします。
【キャリア】貰った分の給料の仕事しかしないという危うい発想【収入】
報酬分の労働しかしない。という考え方の危険性
論理的には正しいです。
報酬をもらえる以上の仕事をする義務などありません。
ですが、この主張、文脈的にはこれぐらいのお金しかもらえないんだったらこれぐらいの仕事しかしねぇや!
なんてふてる場面とかで使われることはあると思います。
まぁ冗談めいて言っている分には構いません。
ただ、中には本気で主張する人がいるので不思議に思う
被雇用者であるサラリーマンがこの考え方に依拠するには長期的に非常に高いリスクが伴うと思うんです。
それどころか、ちょっと貧しい発想になってしまっているんじゃないかと。
残念ながら、この考え方が通用するようにサラリーマンの世の中はできていない
この考えが成立するのは仕事と報酬が1ミリのずれもなく完璧に比例し、変わらない状況でしかありえません。
結局それができないからこそ今は様々な給与体系が制度として整備されているわけです。
年功序列賃金
両方で整合性が付かない場面が出てます。
個人レベルで見ると労働者としての競争力の放棄に等しい
そもそもこの考え方自体は、仕事に見合った報酬はいただく!というどちらかというと歩合制やフリーランサーに近い考え方だと言えます。
この仕事に対していくらで受けます。
とか、
この仕事にはいくら出します。
などというより具体的で細かい取り決めをするやり方です。
彼らも値段設定には幅がありますし、良心的な価格からぼったくりまでさまざまあります。
が、比較的何に対してお金を払うか?というリンクができている領域だとは思います。
なので、そこで報酬に応じた仕事をするという考え方は非常に正しいと言えます。
しかし、それをサラリーマンとして働く側がモットーとして掲げると逆転現象が起きます。
給料を出す側が仕事当たりの給料を定義するのではなく、雇われる側が給料あたりの仕事を定義することになります。
果たして日本のサラリーマンという職種で現実問題それが可能だろうか。
賃上げ交渉の戦略としてわざと仕事のレベルを落とし、交渉するというやり方はありますが、組織的にやらない限りは成功しません。
1人でやったら独占的な仕事でない限り、単に競争力が落ちて終わるだけです。
もっとくれたらこの仕事をする!という構図であれば何かと刺激を生み出せますが、勝手に定義した「くれるぶんだけしかやらない!」では何も生まれません。
サラリーマンはこの仕事に対していくらなどと細かく定められるほど役割が固定されていないことも多い職業です。
新卒者や管理職はなおのことです。
定量化可能で金銭換算可能な仕事で100%構成されているとはいいがたいわけですし、自らの仕事がどれぐらいの成果に貢献しているかを完璧に算定することも簡単ではありません。
結局のところ、もらった分の給料しか仕事をしないといっても、その仕事が何を表すかを明確に定義できるケースがないのです。
加えて、経済がインフレ・デフレするように給料だってその業種・業態・希少性で増減します。
そして、同じように仕事をしていても、給料は国によって違うし、地域によっても違います。
仕事で求められるレベルが不変であるとは限りません。
時代や経営方針と共に仕事のレベルは変動します。
ある時は新しい技術に対応しなければならない
昔と同じ仕事で済まされる仕事はどれぐらいあったでしょうか?
事務仕事を例にとると、昔と違ってパソコンは使えなければなりません。
エクセルやワード、その他のシステムもきちんと使えることが求められる人が優先的に雇われる場合もあります。
これからはAIやRPAの技能が必須になるかもしれません。
責任範囲におけるイレギュラーな仕事が降ってくる場合もあります。
常に変動する世の中で、個人で完結する独立した仕事をしていない以上、「もらう報酬に相当する仕事」を労働者側が定義することは非常に難しいと言えます。
この考えだと「もらう報酬に見合った仕事は必ずする」という話と同義なわけですが、給料を上げればそれに伴う仕事ができるでしょうか。
逆にちょっと成果が落ちた場合、給料の減少を甘んじて受け入れることができるでしょうか。
おそらくそうではないんじゃないかと思います。
だからこそ既存の給与体制はパフォーマンスにかかわらずある程度安定的な部分をベースとして報酬に組み込んでいるわけです。
年功序列賃金にこの考え方を当てはめてみる
年功序列は年齢と共にもらえる金額が増えていくという仕組みです。
今は破たんし、既得権益を手放せない人たちが若手よりも多くの給料を得るレガシーシステムと化していますが、さて、もらった分の仕事と給料に比例している人はどれだけいるでしょうか。
年を経て、賃金が上がれば上がるほど若い人間に比べて圧倒的なパフォーマンスを残さなければならないわけです。
若手や下の世代のエースに下克上されるなどもってのほか。
そんなことでは給料分の仕事ができていないという話になります。
あるいは逆に若手の時は大した仕事をしなくていいということになります。
果たしてこれは本当に可能でしょうか。
そんなことを気にするよりもできる事を増やし、もっと報酬がもらえる仕事をするという考え方にスイッチしなければ淘汰されゆく存在になってしまいます。
それでごまかせるのはシニア世代が役職定年や定年後の再雇用にて給料が激減した時ぐらいでしょうか。
逃げ切ればいいわけですし、会社側から何を言われてもあと数年であり、失う給料も将来のキャリアもないわけです。
それ以外に人でその場で淘汰されても構わない人がこの戦略を取る分には構いませんが、極めて限定的かと思います。
今後はそれすらも許されないかもしれない
日本のシニア世代の社会保障状況の観点からは長い時間を労働に費やすことを余儀なくされ始めている。
逃げ切ろうと思ったらゴールラインが先延びし、その分を凌ぐ必要な備えが足りてなかったなんてことも起こるわけです。
むしろ給料に対する仕事としか考えてこなかった人は昨今流行の早期退職やらリストラやらでバンバン追い出される対象にピックアップされるリスクを高めます。
(※給料分すら仕事ができていない人もいますが。。。要はできる人を優先的に残す会社のダイエットで振り落とされてしまう訳です。)
逆に成果主義の場合にもこの考えは当てはまりません。
なぜなら、もらった給料に合わせた仕事というよりは給料を得るために仕事をしなければなりません。
貰った分の仕事=自分の仕事であり、それは会社側が成果とそれに対応する報酬を定義するため、この考えは根本的に当てはまりません。
貰った分ではなく仕事した分が先に来るので、労働者が定義することは不可能です。
むしろ成果主義という会社が定義した制度に操られる制度的限界があります。
いずれにしてもサラリーマンが給料分の仕事量を先に決めて仕事を一人で始めた場合、待っている結果が明るいとはいいがたいわけです。
しっかりとしたムーブメントで労働者全体でやるならばいいですが、感情的になってそうすることに未来はありません。
結局、時代や競争相手、必要なスキル・能力の変化に対応できない
若手が勢いよく下剋上を狙う層が一定数いる以上、ますます自分自身が向上しなければ給料を得るための強さを保てなくなります。
その場ではいいかもしれませんが、長期的な戦略として「もらった分しか仕事をしない」というサラリーマン戦略を採るにはちょっと自滅っぽいルートだと思うわけです。
だからこそ、若い世代でキャリアに先がある人はぜひ給料以上の仕事をする意味がある環境を選び、決して腐ってもらった分の給料しか仕事しないというダークサイドに落ちないようにしてください。。。
そうおもうわけです。
いくら年上の人がこんなことを言っていたからって染まる必要はありません。