日本人は伝わらないっていう経験をすることがめちゃくちゃ少ないって話
最近、いろいろ思ったことがあります。
欧州での生活を経験して感じたことをメインに書きます。
コミュニケーションのどの部分に力点を置くかについて、日本に戻っても考えなければならない話題ですので、今のうちに書いておきます。
伝わらないっていう経験が少ない日本人
伝わらない。
よくあります。
上司に意見が伝わらない。
上手く言えなくて黙ってしまう。
伝わっていると思ったら違った形で受け取られている。
考えていることと口で言っていることがずれていることは自分でもわかっているけど、うまく伝えられない。
いろいろな場面で人は伝わらないを経験します。
一生付き合う「伝わらない」問題
子供のころは泣いたり、感情をあらわにすることで親をはじめとする大人たちに察してもらいながら伝え方を磨いていきます。
ただ、それだけでは同世代の子たちとうまくやるには不十分なので徐々に言葉による伝達を学びます。
(※大人でもそれができない人はたまにいますが。。。)
この過程では、言葉を通して複雑な内容や細かい部分まで精度高く伝える技術を習得します。
言葉を活用するのは世界共通でも、異なる言語の場合には途端に情報伝達の精度がガクンと落ちます。
また、同じ言語であったとしても文化的な背景や育った環境の違いから全く伝わらないという場面も存在します。
ネイティブのしゃべる英語と英語圏外の人が喋る英語では全く別物になってしまうこともありますし、アメリカとイギリスでも違いはあります。
「伝わらない」は言葉だけでなく、文化的背景や環境的な影響も混在します。
この部分について、欧州での海外生活を経て、とりわけ日本においては「伝わらないという経験」が非常に少ない環境だと強く感じました。
割と多くの人が「それぐらいわかるだろ」の範囲をかなり広めに持っている気がします。
特にお年上の方々はそうです。
それもそのはず。
日本人で日本に生まれて育つ場合、環境的にそこまで大きな差が付きにくいようにできています。
日本は教育水準も高度に画一化されていますし、社会インフラや文化的背景もかなり同一性の高い国だと言われています。
方言もせいぜい沖縄や東北・北海道の奥の方では違いが目立つ程度ですが、完全な別世界ということはありません。
その他にも、外国人や異なる文化背景の人が流入してくる入り口が非常に少ない環境といえます。
教育課程での外国人はまだまだ少ないですし、移民が活発になってきましたが、それでも日本語一強体制です。
徐々に開かれ、オープンになりつつある世界ではありますが、それでもまだまだ単一文化の範囲内を脱しているとは言えません。
更に、もともと不言実行を良しとしていた世界です。
語らずとも語ることを美徳とする文化的背景もあり、必然的に明確なアピールはせず、お互いに察しあうという点に力点が置かれてきたといえます。
阿吽の呼吸や以心伝心など様々な言葉抜きで通じ合っていることを表す表現があるように、同調性や協調性を重んじる国民性や社会的傾向が歴史的に主流でした。
それ故、伝わるはずだ、察するものだという「推し量る」ことの要求レベルは比較的高い水準にあると言えます。
実際、そこのお前もよく大人からは「普通こうだろ!」という常識論やあるべき論をあまり十分に説明されずに語られたものです。
そういう意味では「伝わらない」という苦しみに関する認識は子供よりも大人の方が劣っているかもしれません。
伝わるのが当然だとみんなが思う
いいからやってみろ!とかつべこべいうな!といった抑えつけは子供のころから嫌というほど経験してきました。
何で説明がないんだろう。。。なんて思うことも多かったです。
それは多くの若い世代が疑問に思うところですが、それを圧倒的な力ですり潰すのが日本式でした。
「上の世代は無条件に尊重すべき」が是とされてきた日本社会
この縦社会という年齢に基づくヒエラルキーの序列関係が強力に集団を統治できる仕組みとして機能していました。
そのため、極端な世界では上が言ったことがわからないのは何があっても下の責任という文化でした。
年上世代に配慮することや、自分自身の考えや思考を抑制して組織における感情的調和を図る事が良しとされてきました。
状況と立場に応じて察するべき立場、察してもらえる立場を悟り合うのが日本的コミュニケーションな訳です。
実際、それでうまく物事が回るケースもありますので、絶対的に悪い物とは言い切れません。
が、世界に出た時に短所になりうると痛感しました。
誰が察して、誰が察してくれるかの序列は文化ごとに違うのです。
むしろよりインターナショナルな場ではそんな序列は存在しません。
つまり、全く違うスキルが必要になるのです。
欧州では様々な人が渡ってきて、入り混じって生活をしています。
移民の是非についてはここでは論じませんが、直近の移民の問題が起こる遥か昔から欧州では世界中から人が集まってきていたわけです。
宗教も多様化しますし、言語も多様化されている世界なわけです。
それは欧州内の別の国ということもあればインドやトルコなどの西アジア組、アフリカなど様々なエリアから様々な人種が溶け込んでいます。
何世にもわたって定住しているという人も一定数いるのです。
そんな中にあっては伝わらないことだらけ
もちろん欧州の人たちが完璧に多様性を受容できているかというとそういうことはありません。
彼らも彼らでお互いに相いれない部分を抱えていますし、どっちが上でどっちが下みたいな議論はもちろんあります。
が、子供のころから伝わらにくい、わかり合いにくい人たちと過ごす経験は非常に豊かに積むことができる環境なわけです。
伝わるもんだ。ではなく、普通伝わらないもんだ。に認識が変わります。
伝わらないことが当然という中ではいかにして伝えるかの技術や意識が発達します。
簡単には伝わらない中でどうするか?ということに意識が置かれるようになります。
伝わらない時は伝わるまでとことん主張する。
とか、
相手が何を知らないかわからないからできるだけたくさん説明する。
とか。
伝わらなかった時にどう対処すればいいかを自然と体得します。
伝わらないことでパニックになったりしませんし、相手を殊更に責めたり、省いたりもしません。
こんなこともわからないの?と言い出したら終わりです。
これをヨーロッパでいうと、どんなこと?って平気で聞き返されます。
どうも、わからないやつが悪いというのと同時にわからせないやつが悪いということも結構あるようなので、キチンとはっきり説明主張するわけです。
逆にあいまいにして察するのを待っていると、「いや、言葉にしないとわからないよ!」といって平然と突っぱねられます。
こういう環境で育ってきた人と比べると、最終手段の伝わるまで伝えるというごり押しも含めて、相手に積極的に伝えるエンジンの出力が違います。
これは日本人として育つ過程ではあまり体得しにくい能力だと感じました。
もちろん、不可能なわけではありません。
が、少し意識をして手に入れに行く必要があると言えます。
日本では身に着けにくい伝わらない時の対処法
子供のころから、大人たちが伝わるもんだという認識でコミュニケーションをとってくるので、その人たちのまねをしていては自分も同じ人間に仕上がってしまいます。
年が下であればあるほど相手を察することを求められるわけですが、逆に言えば年を重ねれば重ねるほど相手に察することを要求しまくるようになります。
あまりに長い時間「察して当然、伝わって当然」という中にいると環境の変化に耐えうるサバイバル能力を失います。
また、そういう「伝わる人」としかコミュニケーションをとらないと恐ろしく交友関係の幅が狭まり、非常に閉鎖的な人間になってしまいます。
察することを相手に要求しまくっている裏では自分自身の能力を切り捨てているということです。
無自覚に察することを要求することが結構恐ろしい。
この経験の少なさはこのグローバル社会の発展・浸透の過程でますます致命性を増していると思います。
相手がわかるように、相手の解釈の範囲を狭めて特定するように伝えるという点に日本人は重きを置いてきていないわけです。
むしろ、日本では言わなくてもわかるよね!っていう点に力点を置いている人は結構多いです。
もちろん日本人だけがそうだと断ずるわけではありませんが、割合は多いと思います。
そこのお前の個人的な意見では伝わらない経験の少なさがこの現象を作っていると思っています。
大体わかるだろうという線が非常に広く設定できるのは文化的・言語的同一性の高い状態で基本伝わるという安心できる状態を持っている状態のみです。
特に年齢や位が上がれば上がるほどにこの範囲を広く設定しがち
おそらく、日本でキャリアを積む上ではこれが無自覚に広がり続けることに危機感を持たなければならないと考えています。
若い世代は逆にいろいろと配慮したり考えるものなので、より柔軟でいることができますが、年上世代になって日本社会に特化して柔軟性を失うことは気をつけねばなりません。
逆に、面白いのが、日本人は察する能力が高いので、欧州では逆に珍しがられます。
言ったら確実にわかってくれるし、言った以上のことをやってくれるのはすごくよい。
という評価をもらえます。
リアクションも薄いし、多くはしゃべらないけど伝わっているんだよね。。。と感心されます。
普段、これでもかってぐらいはっきり言わないと伝わらない彼らからすれば、リアクションが薄い日本人はつかみどころがなく見えるけれど、助かるそうです。
これ、実は誉め言葉であり、ちょっとしたダメ出しでもあります。
欧州では控えめさよりももっとずっとアクティブさが求められるんです。
わからせるための努力も、わかったアピールも両方必要なのです。
これは根っこには伝わるだろうという淡い期待や常識の範囲で伝わるだろうという認識をかなり狭い範囲に縮小しているという点にあります。
実際、こちらからコミュニケーションをとるときは言わないと伝わらないですし、言ってもわかっていない時もあります。
分かったかどうかを確認させ、繰り返させたり、適宜確認を入れたりするという手間が必要になります。
結構大きな違いです。
頭ではわかっているんですが、なかなか普段確実に必要なレベルで出来ているかというとそういうわけではありません。
「伝わらない」に対する弱さ日本人が抱えるある種先天的な弱点かも
この弱点をカバーするには「伝わらなかった時にどうするか。」を常に意識し、磨き続けなければなりません。
伝わるもんだと勝手に思い込んで、うまくいかない時にイライラするのはまだまだ次元が低いわけです。
そこのお前もそういうことは多々ありますが、成熟するとともにそういった勝手な思い込みやバイアスをそぎ落としていかねばなりません。
日本人同士でもどんどん多様化していますし、他の世代としゃべるときはそういった配慮が必要になったりするわけです。
同時に、どうか恐れずに主張していく度胸とパワーを身につけたいと願う日々です。
ビビりのそこのお前にとってはそっちの方が大きな課題です。
伝わってほしいという淡い期待をやめて、伝えるんだという積極的な意思を持てるように変わっていくのが肝要です。
伝わらないは悪いことではないって思えるようになること
伝え続ける粘り強さを持つこと
伝わっていないことに過剰な罪悪感を持たないこと
こういう細かい意識変化の積み重ねが必要だと思います。
【海外赴任】もう一周欧州生活を繰り返すとしたらどうしたか?その2【人生】
さて、続きです。
もう一度欧州赴任をループできたとしたら?
前回の、なぜ違いにアジャストできなかったかという点についての続きです。
ここからはどのような行動をとればよかったか?という点を突き詰めていきます。
1周目で不足だった点。
具体的な話は企業秘密もあるのでここでは書けませんが、特に日本で出来ているのと同等レベルで何かをするのであれば下記の点がこれまでに比べてできていなかったと言えます。
- 断られるのを恐れずに積極的に何かを発し続ける
- トップダウンの組織構造を理解する
- わからない場合は食い下がる
これを考えてみた時に気が付きました。
なんと並べてみると新人研修で教わるような内容ばかり。
結局、新人の頃に教わったことが100%できていたとはいいがたい内容だったように思います。
これって結構痛いことだと思いませんか?
同時に、これが100%できなかったことでいろいろ後悔が残りました。
その後悔はどこから来たかというと、結局はビビる心が全てをダメにしました。
何周するとしても「怖がらない心を持つ」これに尽きる
ある程度環境が安定してくると失敗を恐れたものですが、見知らぬ環境で失敗を恐れても失うものもなければ得るものもありません。
ビビって中途半端に行くと何も得られないままで、うまくコミュニケーションが取れないもどかしさを抱えることになる。
逆にそのもどかしさが枷になって何もできないということが起こりうる。
じゃあ、なぜ怖がったか
やっぱり嫌われるのが嫌だったし、最初に拒否されてしまうとそのままずーっと行ってしまうんじゃないかと思ってしまったわけです。
年を重ねてある程度経験や知識を積んでできるようになったことは増えました、
ですが、新人の時に強く意識させられたことが完全には徹底できていませんでした。
これってそこのお前だけが特別にできていないことじゃないと思うんです。
多くの大人も完璧にできているとはいいがたい
そのくせ若手の時だけやたらと報連相とか礼儀とかをひたすらに叩き込まれてできないとすぐに怒られていたわけです。
年上の人は何も言われないのは不公平だと思っていたりしたわけですが、むしろ気が付かなくなるわけです。
そんな基本が徹底できていなかった自分は新人に対して胸を張れる社員じゃないということです。
逆に言えば新人でもそれができていたら大化けする可能性があるし、自分を信じていいのです。
やはり新しい環境で全く新しい人と異なる言語で仕事をするということはいろいろなことを思い出させてくれました。
ちゃんと見本になれる人であるべきだと思いました。
これからはいつまでも若手のような気持ちを脱してきちんと甘えを排除していかねばなりません。
それにただただ傲慢でいけ好かない年上にならないためにも質実剛健でなければなりません。
管理職として、誰かをコーチング・ティーチングする立場としてはこのことを忘れてはいけないと改めて認識しました。
なぜビビるかの掘り下げ
なぜなぜ分析のさらに奥の第3階層について掘り下げてみます。
ビビる理由って簡単です。
上記にも書いた通り、
変な人だと思われたらどうしよう
とか
恥ずかしい想いをしたらどうしよう。
とか
ネガティブな印象を与えたくないという気持ちが強かったわけです。
拒否されるのが怖くて積極的にコミュニケーションをとれなかった
とか
誰が何を把握しているのかがわからなくてうまく連携を測れない
こう言う部分っていったんわかってしまえばなんてことないですよね?
そういうのが抵抗なくできる人にとっては何が難しいのかわからないかもしれません。
そこのお前のような超絶人見知りにとっては非常に難しい
それがちゃんとできるようになるまでに時間がかかるのはなぜだろう。
実はこれ、効果的な第一印象の植え付け方を知らないからこそ起こるんじゃないかと思っています。
やり方を知らないのと同時に自分自身に自信もないわけですが、その弱い部分が最も極端に出るのが海外という環境だったわけです。
海外に限らず、日本でもそこのお前は初対面という現象に強い苦手意識を持っています。
初対面から踏み込んでいくことが得意ではありません。
一から人間関係を築いていく状況に置かれたならビビってはいけない。
そうわかっているのですが、改めてまだまだ未熟であることを思い知らされました。
ビビりで損したことを痛感した1年だった。
まぁ、この結論にたどり着くまでにいろいろと理屈をこねくり回してみたわけですが、非常に簡単です。
ただ、ビビっていたことで損した
ということです。
そこのお前、やっぱり開拓者には向いていません。
人間関係に関してはとてもへたくそなのです。
まぁその弱点による悪影響をもろにかぶったことをいい加減反省し、改善しなければなりません。
もちろん慎重にやった結果、いい人だとは思ってもらえます。
すごく優しい人だと思われますし、日本人の海外における評判に恥じない穏やかさと控えめさをよく思ってもらえます。
人格として悪い評判は特にありませんでした。
ただ、結果が出たか?という意味では非常に難点のある内容になりました。
いい人であり続けることは必ずしも結果をもたらさないわけです。
特に、短期間で信頼と結果を同時に作り上げるということは土台難しいわけです。
もちろん悪く思われないというのはいいことではあるのですが、同時にものすごく魅力的にはなりにくいわけです。
自分自身もその自覚はある訳です。
もっとアグレッシブで魅力的な人間であれたらと思うわけです。
更に、最後に振り返って真っ先に頭に浮かんでくるのは、消極的な失敗だったりします。
もっとこうすればよかったとかなんでこれができなかったんだろうとか。
積極的に失敗したというよりも本当はできたのにビビってできなかったとか、遠慮して機会を逸したというようなことでした。
次の機会はあれど、今回でもできたはずなのにできなかったというのは自分自身の心に深く突き刺さります。
そして、自分の脳は本当に便利なものです。
こんな嫌な瞬間も、時間と共に自責の心を紛らわす防衛機制が上手く理屈をつけてくれます。
あるいは無意識の領域に追いやったりして考えないようにコントロールしてくれちゃうのです。
失敗を考えなくて済む環境にいれば勝手に新しい情報に押し流されて忘却の彼方に消えます。
それに、今まで人生が大失敗したと思っているわけでもないのでそのまま何となく現状維持をさせるように脳がコントロールしてくるわけです。
何となくでまた忘れて緩やかに同じことを繰り返すわけにはいかない
繰り返して同じ失敗をしないためにも改めて自分に対して強く意識させねばなりません。
もう子供ではないことを。昔のように弱弱しい自分ではないことを。
もう一度欧州生活を繰り返すとしたら、今よりもっと何か周りに刺激を与えて場を動かすことに努めます。
安全圏になるまで動かないというやり口をやめます。
様子見しかしない戦い方をやめます。
外資系企業というフィールドで戦うことを選んだのであれば求められる行動を再現できるように成長の足を止めないようにします。
たぶんそれは欧州じゃなくても日本に帰ってからも時として必要とされる考え方だから。
そして、来るべきチャンスを再び虎視眈々と伺い、モノにするためには日本に戻って忘れるわけにはいきません。
人見知りでビビりな人間がそれを克服できる日が来るようにまだまだ長い人生歩みを止めぬようこの欧州生活を深くとどめます。
【海外赴任】もう一周、欧州生活を最初から繰り返すとしたら?その1【キャリア】
欧州生活は非常に悔しい想いの残るものでした。
自分自身への期待や想像を超える1年にはできませんでした。
ある程度やれるという手ごたえはあったものの、克服しきれなかった大きな課題を認た年でした。
やはり日本で出来たようにはできない
とはいってもからきしダメということはなく、ある程度の成果と信頼を得ることはできました。
ですが、パフォーマンスも下がるし、結果としても満足いくようなものが達成できなかったと思っています。
赴任前直近3年程度から比べるとはるかに悔いの残る消化不良の時期でした。
それもそのはず。
そもそも、メジャーリーガーやサッカー選手等に代表されるアスリートでもそうですが、日本時代に比べて比較的成績は下がる傾向にあります。
特に海外が本場のスポーツであればなおのことですよね?
あのイチローですら日本と比べて成績は下がったし、大谷もホームランはそん色ない数字なものの打率自体は下がっています。
逆にメジャーリーグからきても思ったような活躍ができずに帰っていく外国人だっているわけです。
グリエルとかユーキリスとか
例にもれず、欧州で成績が下がることは避けられなかった。
まぁポジティブに考えるならば、日本で積み上げたことは間違いではなく、それなりの成果を挙げていたとも言えます。
が、それは純粋な個人の力量ではなく、周りも含めた環境との組み合わせのおかげということです。
将来にわたっていい意味にするとすれば、自らの周りの環境に感謝するという心を強く感じたことでしょうか。
これだけは日本を離れてみないとわからなかった気がします。
これからあまりそういった真新しい経験をリスクなしでできる機会は少なくなると思うので、そういう意味では非常にありがたかったです。
欧州で文句なしと言えるパフォーマンスではなかった原因
理由は主に4点で説明できます。
なぜなぜ分析の第一階層でいうと以下の通りです。
- 言語の違い
- 人脈や人間関係の違い
- 企業規模・組織文化の違い
- 孤独な私生活環境
基本的には環境の変化が直接大きな影響要因になっています。
敗因はその変化に対応しきれなかったことだと思います。
では、なぜこの4点の環境的要因に強く影響を受け、対応しきれなかったのか?
ここからが、なぜなぜ分析の第2階層です。
本当だったらもっと効率よく出来たかもしれないと自分でも思うシーンもありました。
本当は高い評価が欲しいところでしたが、胸を張って高い評価をくれと主張できる立場ではありませんでした。
さて、そんな欧州生活での悔いの残り方ですが、今日はたらればの話をしてみます。
普段は仮定の話などしても仕方がないと大見得切ってどや顔をしていますが、今日だけはしっかりと自分自身と向き合ってみたいと思います。
もう一度欧州生活をループできるとしたら何をするか?
上記のなぜ1に基づいてどうしたら環境の変化に負けない個人の実力を持てるかを考えてみました。
もちろん、環境選びが非常に重要なのは言うまでもありません。
自分が活躍できる環境で活躍すればいいといつも言っているわけですが、それだけではありません。
競争優位性だけでなくキャリアとしての生存力を高めるにはより多くの環境で活躍できる方が強いわけです。
欧州生活のテーマはいかに慣れない環境の中でも生きることができるか?だった。
結局、最高のパフォーマンスを出すにあたっては、環境に最適化することが求められます。
日本に最適化した人がいきなり海外に出た時にそう簡単に同じパフォーマンスを出せるわけではないといえます。
特に単身で乗り込んだ場合はなおのこと簡単ではありません。
ある企業に最適化しすぎると、そのほかの企業で活躍できなくなるなんてていうのは国内の転職でも起こりうる話です。
だからこそ年齢が行き過ぎた人の転職活動は敬遠され、難航される傾向にあります。
どんなスーパースターでもこの3点から非常に大きな影響を与えられてしまうことは避けられません。
そこのお前だけでなく、そこのお前の会社から海外に行った多くの日本人も日本と同じ評価を得るということは非常にハードルが高いです。
悔しい想いはありますが、幸いなことに長い人生、次のチャンスはまだまだあります。
が、無策で挑むのはさすがにもったいないわけです。
次の海外赴任リベンジのチャンスに備えた考察
PDCAなんてかっこよく言う人もいますが、簡単に言うと次もっとうまくやるならどうするか?という話です。
言語の違い
キャリアのスタートとして5年以上を過ごした日本と全く初めての欧州ではさすがに積み上げたものが違い、スタートラインが異なりすぎました
なんなら、日本語でのコミュニケーションと英語でのコミュニケーションの差なんて20年以上の積み上げの差があります。
それに英語力ももともと高いレベルにあったとは言えません。
日本の中では高いエリアに位置していたのは間違いないですが、欧州できちんと張り合っていけるレベルではありませんでした。
特にテンポの速い議論についていくのに本当に苦労しました。
日本でやっていたように同じようにできると思ったら甘いですね。
ただ、もっと改善できたんじゃないかとか、もっとうまくやれたんじゃないかと思うわけです。
人脈・人間関係の違い
日本で保持していたレベルと同じぐらいの人脈や人間関係があったとしたら?
という問いに関しては、もっとよくできたハズだと信じたいです。
特に誰が何を知っていて、どういう癖がある人なのか?
という点を把握することにすごく時間がかかりました。
特に必要な人間にたどり着くのに多大な時間を要しました。
追い打ちをかけるように、限られた時間内にリーチしないと捕まりません。
日本のように遅くまで連絡が通じるなんてことはありません。
これにより、最初は様子見でおとなしくするスタイルのそこのお前にとっては不必要に時間を要しました。
本当だったらもっとアグレッシブに行かなければならなかった
そうでなくては短期間の間に爪痕を残すことは不可能でした。
日本のように5年かけてたどり着くなどではなく、もっと短いスパンでアピールし、インパクトを残す必要があるわけです。
それに気が付いた時に、自分自身の実力が日本において築いた人脈や長い時間をかけて積み上げた人間関係に依存していることを痛感しました。
そりゃ当たり前の話なんですが、ちゃんとは認識できていなかったようです。
企業規模・組織文化の違いの話
そこのお前の勤務する外資系企業は世界的には大手ですが、日本支社はせいぜい中小企業規模です。
そのため、自分で考えた事がそのまま自分で動いて自分で成果を刈り取るスタイルでした。
逆に欧州本社は押しも押されもしない大企業
同時に欧州全土を見るという非常に幅の広い業務範囲でした。
そうすると当然一人でやるのは無理なわけで、自分の役割は非常に細分化されますし、様々な人と協力しなければなりません。
すると当然働き方も変わる訳です。
個人個人がバラバラに動こうとするとどこかで不一致が発生するので基本的にはトップダウンで決めます。
上がやると言ったらやる。
それ以外のことは優先順位を落とすわけです。
日本だとそれでも何とかねじ込めたりするわけですが、海外ではそういうわけにはいきません。
優先順位の落ちたものは誰もやりませんし、やらなくても誰も責めません。
すると非常に長期間を必要とする仕事が増える訳なのですが、単年でやってきて一からはまり込む点が上手くいきませんでした。
大企業は大企業らしく組織の中で泳いで大きくなるのに時間がかかります。。。
企業文化の違いだけでなく、個人行動の違いもありました
何か会議をしたとして、どういう立ち回りをすればどう人が動くかという点も理解するのに時間がかかりました。
とりわけ日本と比べると大きく違います。
日本よりも誰が何をいつまでにやると明確に指定しないと、するするっと逃げられてしまったり、なかったことにされたりという落とし穴がありました。
本当に明確に他人の守備範囲にボールを落とさないと誰も拾いません。
境目にボールが転がっていても誰も拾いやしません。
まぁそうかなとも思うのですが、働き方としては効率的です。
本当はもっと頑張れるけどあえて頑張らない。
全体的に漂うこの感じが最も印象的でした。
なぜなら一人で頑張ったところで動く部分はたかが知れているから。
とか
無理してやればやるほど搾り取られるだけだから
といったところでしょうか。
さすがはビジネスに余裕がある大企業です。
結局はマンパワーというよりはシステムによって動いています。
もちろん一人で頑張って効果が出るものはやればいいのですが、一人だけが先走っても動かないわけで、結局は遅い部分に足並みを合わせることになります。
すると、優先されない一人では動かない仕事はやらない。となる訳です。
これは非常に不平等な部分を抱えたシステムだと思う。
もし運よく自分のやっている事が優先的な仕事になれば一気に物事が動き出しますが、逆に優先されないとなると一切のチャンスが生まれなくなるわけです。
小さい企業であればまだひっくり返すチャンスはありますが、大きくなればなるほどそれが難しくなります。
そういった大企業としてトータルでは効率的な働き方を理解するのに時間がかかりました。
孤独な私生活環境
単身赴任だったわけですが、結構ツラいです。
親友や家族はすべて日本に置いてきています。
時差もあるのであまり時間も取れません。
日々の何でもないことを共有し、共感できる人が恐ろしく少なくなった
まぁちょっとこれには参りました。
外国人の友人もできないことはありませんが、それでも本質的に共感できるかというとなかなかそうはいきません。
英語で深い話をできるほどの表現力はありませんし、彼らも彼らの生活があり、あんまり甘えるわけにもいきません。
これは日本人に限らず、同じ欧州の他の国からきている人でも感じる
やっぱり親友や友達の存在は大きいわけです。
そこが満たされないと寂しい気持ちは募るのは世界共通のようです。
それを感じないで済むような場合もありますが、それなりの運と努力を必要とします。
まぁ気が合う人が出てくる場合もあれば、からきしダメな場合もあります。
こういうのは留学などの学生の方が関係を作りやすいんじゃないかと思います。
会社勤めだと結構な確率で同僚たちがみんな夫が妻が子供がと家族の方に行ってしまうので単身赴任者には寂しい日々が待っています。
こんな気が付きがあったわけです。
学んだことを活かしてもう一度仕事するならどのように戦っただろうか
これは次の記事で書きます。
一度ここで切ります。
【海外赴任】過度な期待は禁物!海外生活!って話【人生】
憧れの海外赴任・海外生活はいつしか日常へ
海外赴任・海外生活
夢を抱く人にとっては憧れの一つかもしれません。
そんな海外赴任に強いあこがれと魅力を抱く人に読んでほしい話。
海外赴任・海外生活の魅力はどこから来るか。
みんなができるとは限らないちょっと特権的なものだからでしょうか。
日本の今の環境に満足していないからでしょうか。
「ここではないどこか」に自分の理想を投影しているからでしょうか
それとも何か強い目的や意味が特定の土地にあるからでしょうか。
日本の生活が嫌な人や海外に夢を抱く人はより強く感じることもあるかもしれません。
逆に、海外生活に興味が湧かない人はからきし湧きません。
興味のない人もいますし、積極的に外国が嫌いという人もいます。
ですが、憧れる人は強く憧れるものです。
そこのお前も海外生活にはいろいろと期待してしまっていました。
海外赴任への向こう見ずな期待は毒にもなりうる
非常に耳が痛い話ですが、海外赴任に過度な期待は禁物です。
外国に行くこと自体が無条件に自分の人生をときめかせてくれると思ったら大間違いです。
絶対間違いとは言いませんが、海外に行くだけで何かが変わる可能性は低いです。
特に海外赴任・海外生活自体が目的になっている場合は非常に危険
海外に行くことはあくまで手段であって、その先に何が待っているかがしっかりないと自分自身を保持する安定性は著しく低くなります。
期待すればするほど、落差が大きいかもしれません。
今の環境から逃げたいなんて逃避願望が海外生活への願望にする変わっている場合も非常に危険です。
キラキラした素晴らしい楽しさと幸せに満ち溢れた生活のはずだったのに現実は泥臭くて、なんてことのない時間だなぁ。
なんて思う人は結構いると思います。
逆に怖くて怖くて仕方がないけどいかざるを得なかった。
という人は思ったよりも何とかなる現実を経験するたびに自分自身の世界が広がっていくことを感じるかもしれません。
結局、海外赴任・開会生活はなかなか思った通りにはならないわけです。
その中で最初に期待しすぎるとかえってモチベーションが続かなくなる場合があるという事です。
特に憧れにすべてのモチベーションを乗せている場合、非常にリスキーです。
逆にその期待が裏切られた時にはモチベーションの源泉を失います。
この場合、かえって事前に抱いていた強い希望や期待が返って自分自身を苦しめることになります。
海外赴任や海外生活の先に何があるか。
会社の期待株として赴任するとか、何らかの目標や使命を帯びていくなど様々な理由で海外に行きます。
海外での経験の先に何か素敵なものが待っているかもしれません。
そのため、外国にいて何かをして、海外生活で掴んだ何か価値のあるものが人生をときめかせることはあります。
事実、たくさんの刺激を得ることができますし、日本では得られなかった体験や感覚を得ることもできます。
ただし、それは良くも悪くも両方の意味でです。
想定外のことがたくさん起こります。
想像以上に人が優しくしてくれる場面もあります。
想像もしていなかったイヤな場面に遭遇することもあります。
全く違う文化に魅了される場合もあります。
全く違う文化に戸惑うこともあります。
正直、日本の中で得られる想像の枠には収まらないものがあることは確かです。
それらの想像の枠を超える何かに胸を膨らますことは悪いことではありません。
むしろ、そういう気持ちを持ってこそ人生は楽しいものです。
ですが、その気持ちが永遠に続くことはありません。
いずれは海外赴任・海外生活のワクワクは全て「日常」へと溶けていく
もちろん、常に新しいことや未知のことに挑戦し続けられる場合はその限りではありませんが、留学での学習も海外赴任での仕事も時間と共にありふれた日常に変わっていきます。
そうなると、どうなるか。
新しいことを体験することで得られる面白味はいずれ消える。
大学生活も1年生や2年生の浮ついたころから4年生、大学院生と上がると徐々に地に足がついてくるように
結婚生活が数年後に落ち着いてマンネリを迎えることがあるように
煌めくような魅力は徐々に日常のありふれた景色に変わっていきます。
もしかしたら、人生の夢や希望の一つが自分にとっての日常になることで逆にものすごい喪失感を味わうかもしれません。
こんなはずじゃなかったのに。とか思ったよりつまらないな。
なんて。
そこのお前も海外生活には満足していますが、同時に限界も感じる場面が増えています。
帰りたいけど帰りたくない。
そんな入り混じった感情が自分の中でうねり、複雑な心境を作り出しています。
夜明けと黄昏を同時に味わっているような感覚です。
それもそのはずです。
そこのお前の動機は海外生活をすることが大切なのではなく、海外でも遜色なく自分が生きることができることを証明したかったという話でした。
それに対しては一定の成果を見出しつつも、同時に限界がありますし、自分の人生にはその先があります。
それを証明した後にどんなことが続いているのか。
大学もその先のステップのためであるように、結婚も結婚すること自体がゴールではないように。
海外赴任や海外生活も一つの過程にすぎません。
人生には続きがあるのです。
海外で思い通りにならない現実も得られる貴重で希少な経験もすべてその先の時間につながっているわけです。
そういう認識を持ち続ける必要があります。
海外生活や海外赴任で人生はゴールとはなりません。
常に先があります。
海外赴任は想像もしていないイヤなことを体験することもある。
期待したワクワクや希望が実現されないのみならず、想像もしていないことに直面します。
役所の手続き一つとってもわからないことだらけでストレスがあります。
現地にうまくなじめない場面が出ます。
ローカルルールなどに遭遇して恥をかいたり苦しんだりするときがあります。
日本にいた友人や理解者の大半はそばにはいません。
海外赴任・海外生活のポジティブな変化の裏にはネガティブな部分もある。
もちろん現地でうまくコミュニティを作ることはいくらでも可能ですが、根本的に満たされない何かを抱えることもあります。
人それぞれ思い通りにいかない瞬間や大変な時期があるわけです。
それによって大きな挫折を味わうこともあります。
思っていたものとは違う現実
日本を飛び出した自己肯定感や殻を破った感を容赦なく叩きに来る海外での自分が何物でもないというちっぽけ感。
事前に期待しすぎればしすぎるほどその落差に苦しみ、心に傷を負う可能性が生まれます。
だからこそ、根拠のない希望やバラ色の未来を抱くことはお勧めできません。
最後に念押しします。
海外赴任・海外生活に期待や希望を持つことはいいことです。
ぜひそういう好奇心や冒険心にドライブされた瑞々しい想いを持って欲しいです。
ですが、それは保証されているものではないという事も同時に心のどこかで感じていてください。
未知なる素敵な体験をする可能性を得ていることは間違いありませんが、100%ではないのです。
あまり事前に得るものや生活のイメージを固定しすぎてはいけません。
海外赴任・海外生活に100%を要求はできない
何か欲しい物を得るにしてもどうなるかわかりません。
そんな気持ちで寛容にどっしりと揺らがない気持ちを持てる人が海外生活を楽しみ、充実した経験として価値を持つことができる気がするのです。
行く前の希望だけじゃなくてそんな現実も教わったことでまた一つ成熟した大人になった気がします。
若さと引き換えかもしれませんが、それでも日本では味訳ない経験をしたことは間違いありません。
それでもやっぱり海外にいった事を後悔したことは一度もありません。
それに、必ず後悔しないように人生を運んでいきたいと思っています。
ではでは